地名をキーワードにして地域の歴史を掘り起こすページです

サナ

サナ

サナ

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 長船町長船サナ周辺図と文明年間の絵地図の一部

 サナは長船町長船にあり、『和名抄』に靭負郷(ゆきえごう)と記載されている地域です。
 長船といえば備前刀の大産地で多くの名工を輩出した所です。

 サナは金属の意とされています。
 岡山県内には

  • 備前市蕃山に「佐奈高下」
  • 真庭市(旧八束村)に「サナ」
  • 真庭市(旧中和村)に「サナノサコ」

 があります。

 サナと同類と思われるものにサムがあり、
 岡山市北区建部町に「寒(さむ)砂」があります。
 またサイに転訛して同町に「サヒ」があります。
 更にサビがあり、井原市七日市に「赤錆(あかさび)」があります。

 本項は長船町長船のサナに関係する、

  • (1)製鉄に関係する地名
  • (2)製鉄神天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
  • (3)製鉄に従事した氏族

 について述べます。

サナと周辺の関係地名

サナは古老の話によると長船で最も低い土地です。
ここはかって吉井川が分流していたころ、その支流の一つと備前市伊部・香登方面から流れている香登川が合流していた付近でした。

 合流した付近は川砂鉄が最も溜まりやすい所で、何千年の間に相当な量の砂鉄が溜まったものと考えられます。
 その地がサナと命名されたのは長期間採取されたためと思います。

 文明年間の絵地図に大森池と記載されている箇所がサナですから、採取した後が窪地になり湛水したと推測できます。

 明治になってもその一部が手洗池として残っていたという伝承があります。
 現在は住宅地になり当時の面影はありません。

藤ノ木

 藤地名については度々書きましたが、県内の産鉄地に殆どと言ってよいほど多く命名されている地名です。

 藤の繊維は砂鉄を鉄穴流しで採取する際に、小石などを篩いにかけて選別する筵の材料として必要不可欠なものとされています。

  • 新見市赤馬の「金藤」(金は砂鉄の意)
  • 総社市山田の「藤砂」(砂は砂鉄の意)
  • 岡山市北区御津草生の「赤藤」(赤は砂鉄の意)

 などは、藤の用途を如実に表していると思います。

福井

 長船の北に隣接する備前市坂根にある大きな地名です(文明年間の絵地図参照)。

 最近山麓の水田からカナクソが採取されました。
 耕作者の話によるとトラクターで耕耘すると田の一部に石を削るようなガリガリした所があるそうです。

 カナクソを採取したのはその付近ですが、未調査なのでたたらの跡かカナクソの捨て場なのか分かりません。しかしたたら製鉄が行われていたであろうという推測は充分にできます。

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    出土したカナクソ

 福井の福は「吹く」で「鉄を吹く」意と思います。鉄を吹くとは炉へ送風することですが、製鉄全体の意です。
 従って福井は産鉄地を意味する地名と考えられます。福井の井は接尾語で特別な意味はありません。

金黒

 地図に記載しているのは長船町側ですが、隣接している備前市畠田へ広がっている大きな地名です。

 時々カナクソが採取されていますのでカナクソの捨て場であったようです。
 金黒の金は鉄の意ですが、黒は畔(くろ)の当て字で盛り上がった所と考えられます。

 採取されたカナクソは鍛冶滓で刀鍛冶の工房から出たもののようです。
 たたらのカナクソは確認されていません。
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製鉄神

大森大明神

 大森大明神について『邑久郡史』下巻に次の記述があります。

当社(靭負神社)は往古同村大森と云う地に鎮座ありしを、寛文九年 (1669)二月現今の地に移転し奉れり。尚旧蹟には手洗池あり、明治迄も残れり、又壱町以内の地に字的場あり、此処は五月五日祭礼の節、氏子等靭を負い菖蒲の鬘にて的を射る跡なりと伝う

 としています(地図参照)。

 この伝承の「大森と云う地」と「的場」は上掲の地名地図と一致し、「手洗池」は文明年間の絵地図の「大森池」と対応しますので信憑性の高い伝承といえます。

 靭負(ゆきえ)神社は備前国式内外古社で正五位下靭負明神と記載されていますが、大森大明神と通称されていたようです。
 靭負神社は靭負郷という郷名に因むものです。

 絵地図には「大明神」のみ記載されていますが、『備前国々中神社記』〈延宝3年(1675)〉に

長船村 大森大明神 神主同村高原和泉 旧記・来歴無御座候、以上

 とあり、大森の地に祭られた社は大森大明神であることが分かります。
 祭日には大森の傍らの「的場」で弓を射る神事が行われ、盛大な祭の様子が窺えます。

 大森池は地名「大森」の西側にあることから、サナの地であることは先に書きました。サナは長船地区で一番低い土地という古老の話とも一致します。
 伝承に「手洗池あり」というのはこの大森池の名残と考えられます。

大森大明神の祭神

 大森大明神の祭神は旧記・来歴がないので不明ですが、推測してみたいと思います。

 吉田東悟著『大日本地名辞書』の佐那(サナ)の記述が参考になりますので掲載します。佐那村は現在の三重県多気郡多気町にありました。

(前略)神都志云、佐那村は上古には佐那県と称しき、曙立王の子孫、佐那造の居住せし旧蹟なり。其名古事記に見えたり、今多気郡に属す、其佐那神社、土俗大森社といふ(後略)

 としています。

 曙立王(あけたつのみこと)に関する『古事記』の記述は「此の曙立王は伊勢の品遅部君、伊勢の佐那の造の祖なり」としています。
 
 谷川健一著『青銅の神の足跡』には「明立天之御影命=天目一箇命のゆえに天目一箇命を祖神として奉斎する人々の群れ」であったとしています。

 佐那神社は天目一箇命を祭神とした神社であることが分かります。
 佐那神社という社名は佐那県という地名に由来して命名されたと考えられます。
 その佐那神社を祭った人々は佐那神社とは言わないで大森社と称したとしています。

 これは当地の靭負神社も郷名の靭負郷に由来し、大森大明神と通称されていたことと共通します。

 以上のことから推測しますと、当地の靭負神社(大森大明神)は製鉄神天目一箇命を祭神にした神社であると考えられます。
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天目一箇命

 天目一箇命は『日本書紀』、『播磨国風土記』、『古語拾遺』に登場する片目の神です。

 鉄を作る際、村下(むらげ、たたらの工場長)が炉の中の強い光を片目で見て融解の状況を判断するため、目を痛めて失明するという職業病に由来しているとされています。

 古代人は村下は鉄という文明の利器を生む超人的な力を持っていると考え、神格化されたものと考えられます。

 靭負神社は広い松林の中にあり刀剣の森として大切にされています。
 同社が刀鍛冶の守護神として厚く尊崇されたのは製鉄神である天目一箇命が祭られているためです。

 地区内の「城之内」に鎮座していた天神社に天目一箇命と少彦名命が祭られていました(地図参照)。

 城之内は高台で、名工長光や兼光が作刀していたという伝承があり、多くの刀匠が住んでいたようです。

 この地に祭られていた天目一箇命は、刀匠たちが守護神として大森大明神を分祀したものと推測されます。
 同社は明治42年に靭負神社へ合祀されています。

画像の説明
  靭負神社

 靭負神社には写真のような「め」の文字をたくさん書いた紙が貼られています。
 署名から午年の男性が奉納したことが分かります。

 天目一箇命は炉の中の強い光を見続けたため、目を患って片目を失明した神ですが、後に眼病平癒の神になったと想像されます。
 午年の男性が眼病平癒を願って奉納したものと思われます。

製鉄民

侏儒秦大兄

 長船(靭負郷)の東隣は備前市香登(香登郷)で、靭負郷と同じ邑久郡に属していました。

 香登郷に関する貴重な文書があります。
 『続日本紀』巻一の文武2(698)年4月3日条に、

夏四月壬辰。(中略)侏儒備前国人秦大兄。賜姓香登臣

 とあるのがそれです。

 侏儒(しゅじゅ)である秦氏の大兄は備前国香登の住民で、(ある功績により)香登臣という姓(かばね)を賜ったという内容です。

 どのような功績か分かりませんが、秦大兄は侏儒と云われていたことが注目されます。

 侏儒は背丈の低い人のことです。
 宮廷の楽士も背が低く侏儒と云われていたようです。

 『日本国語大辞典』WEB版には、

台記‐久安3年〔1147〕10月6日「早旦、侏儒僧来、其長3尺2寸8分〈勾全〉年28

 と侏儒の用例が記載されています。

 『神武紀』に、

高尾張邑(中略)赤銅(あかがね)の八十梟帥(やそたける)有り。此の類(ともがら)皆天皇と距(ふせ)き戦はむとす

 また

高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の為人(ひととなり)、身(むくろ)短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相類(あいに)たり。皇軍(みいくさ)、葛の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑(むら)を号(なづ)けて葛城と曰ふ

 とあります。

 赤銅の八十梟帥と土蜘蛛は同一人物とされていますので、八十梟帥は製銅民の首長で侏儒であったことが分かります。

 製銅民・製鉄民は背の低い人が多いとされていますが、穴の中で採鉱するのに背が低いと作業しやすいためでしょうか。

 秦大兄が侏儒と云われたのは、背が低い人で製鉄民であったと考えられます。
 秦氏は殖産氏族でかつ製鉄氏族であることは周知のことです。

 彼らは農具や工具を自家生産し、香登沖に条里制水田を造ったと考えて間違いないと思います。

 平城宮木簡に「香登郷御調□十口」という荷札があります。
 □には金偏が確認されていますので、鍬か鉏(すき)と推測されています(『長船町史』史料編)。

この木簡は当郷が産鉄地であったことを傍証しています。

香登郷(備前市香登・福田・畠田・伊部・東片上・西片上が推定郷域)には多くの製鉄関係の地名が現存しています。

 主なものを列記しますと、
 福井・福田・金乢・金山畑・藤田・笹山・菖蒲ヶ本・蟹ヶ谷・芋谷・金藤
 などです。

畠田

 長船に隣接する畠田は、元亨元年(1321)の「備前刀匠熊野参詣人願文」に、刀匠守家の居住地に「はたけた」と記載されていることから古い地名であることが分かります。

 地名の由来を考えてみますと、はた(秦)→はただ(畠田)→はたけだ(畠田)と推移したと思われます。

 香登郷は上記のように秦氏の居住地であったことは確実ですので、この推測は蓋然性が高いと考えられます。そうとすれば香登郷にもっとも相応しい地名といえましょう。

 関連したものに半田という地名が各地にありますが、はた(秦)→はんだ(半田)と転訛したのと似ています。

 ちなみに上記地名の畠田・半田・福田・藤田の「田」は、水田の田ではなく場所を意味する田と思います。そうすると畠田は秦氏の居住地の意になります。

カヤムラ

 文明年間の絵地図に記載されている地名はほとんど現存しますので信憑性は高いと考えています。

 ただカヤムラのみ現存しませんが、文明年間には存在したと考えて間違いないと思います。

 カヤムラはカヤという集落の意と考えて異存はないでしょう。
 カヤは植物の茅(かや)ではなく、朝鮮半島の伽耶(かや)から渡来してきた氏族が住んでいた集落と推測できます。

 伽耶は古代朝鮮半島南部にあった小国家群の総称ですが、金官伽耶と大伽耶が有力な国でした。加羅、駕洛、韓とも表記されます。

 当地に住んでいた伽耶一族はどんな職業集団なのか分かりませんが、周囲が渡来氏族の秦氏ですから、カヤムラの住民も秦氏ではないかと想像されます。
 産鉄地ですからそれらに従事していたかも知れません。

まとめ

 古代の鉄はハイテク産業の最たるもので、米作りや武器などあらゆる分野で需要は無限に広がっていました。
 特に縄文時代晩期から始まった米作りや農業土木には必要不可欠なものでした。

 それ以来たたら製鉄産業は長く続きますが、特に中国山地は国内屈指の産鉄地で栄えました。
 更に風化して流れ出た砂鉄は川砂鉄になり平野部まで産地を広げました。

 次章の「岡山県内の製鉄(たたら)地名」には製鉄関連の小字地名を掲載していますが、その多さと多様な地名には目を見張るものがあり、大産地であったことが理解できます。

 本項はサナをキーワードにして製鉄関係地名、製鉄神、製鉄民について推測を試みました。
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