三和ノ峰
三和ノ峰
三和ノ峰と大物主命
三和ノ峰は現在の広高山(標高166メートル)の古称です。
瀬戸内市長船町東須恵と長船町西須恵の境付近にあります。
山頂よりやや南に美和神社が祭られています。
美和神社
県道備前牛窓線の長船町西須恵から山頂まで約1.5キロの道のりです。
道路は舗装されていますので車で参詣することが出来ます。
社殿の前には大きな駐車場があり、瀬戸内の雄大な景色が望めます。
瀬戸内の展望
三和ノ峰の由来は、奈良県桜井市に鎮座する大神神社のご神体三輪山の「ミワ」を移して三和ノ峰とし、神体山として崇めたものと推定できます。
美和神社の祭神は大神神社と同じ大物主命で、延喜式神名帳に記載された国弊社です。
三和ノ峰
三輪山は秀麗な円錐形をした独立峰ですが、当地の三和ノ峰は独立峰ではなく山並みの中の一つの山という感じで三輪山には及びません。
磐座
山頂には磐座があります。磐座の岩質は石英安山岩で、大きさは奥行180センチ、横幅150センチ、前部の高さ140センチ後部の高さ80センチくらいで緩斜面にあります。
三和ノ峰の磐座
磐座の周囲には縦横約13メートルの正方形に石が敷き詰められています。
石の大きさは数個抱えて運べる程度のものが主です。
やや斜面になっているのでこの敷石は土留めなのか、あるいは神域を意味しているのか、はっきりしたことは分かりません。
太田田根子
『日本書紀』崇神天皇7年秋8月の条に、大物主命に関係する記事があります。この記事は当地の美和神社の由来を考える上で重要です。
要旨は
「天皇は夢のお告げで太田田根子を神主にして大物主命を祭ったなら天下は太平になると教えられ、天下に布告して探したところ、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)で太田田根子を見つけた。
天皇はおまえは誰の子かと尋ねると、父は大物主命で母は活玉依媛(いくたまよりひめ)といい、陶津耳(すえつみみ)の娘ですと答えた。
天皇は太田田根子を神主にして大物主命を祭ると、疫病はやみ国内は平和になり五穀は実り、百姓は豊かになった」
と記述されています。
須恵器の産地
太田田根子の出自である陶邑は大阪府堺市周辺の古称です。
須恵器の大産地で5世紀中頃から操業を始めたとされ、窯跡は600基とも1000基とも云われています。
須恵器は酒や水が貯蔵できる容器として画期的なもので、さらに祭器や副葬品として大きな需要があり、当時の先端産業でした。
一方当地の長船町東須恵・長船町西須恵(以下長船町を省略します)は『和名抄』に記載されている「須恵郷」の比定地とされています。
しかし須恵郷は東須恵・西須恵のみならずもっと広い地域で、郷内は県内では屈指の須恵器生産地でした(当地の須恵器については別項で詳述します)。
当社の由来を考えるとき、美和神社と須恵郷の関係が、大神神社と陶邑の関係と酷似しており、深い関係があることが分かります。
大物主命を祭る神主になった太田田根子は、三輪氏の祖とされています。
その三輪氏の中の一つの集団が、須恵器生産技術を持って当地に移住し、生産を開始したと考えられます。
移住の際、氏神大物主命を勧請したことは間違いないと思います。
当地で生産を開始したのは、出土する須恵器の年代から6世紀中頃とされています。従って当地に大物主命を祭ったのもその頃と推定できます。
祭った場所は上記のとおり神体山三和ノ峰(現在の広高山)です。
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三和ノ峰と冬至の祭場
冬至
冬至は二十四節気の一つで太陽暦の12月22日ころです。
冬至の日の出は東南東30度の線上から昇ります。
昼の長さが最も短く太陽の光が弱まり、万物の成長に危機が訪れると信じられていました。
そこで太陽の復活を願う行事が世界的に行われました。
キリスト教圏で行われるクリスマスは、太陽の復活を祝う行事が基になっていると云われています。
中国では天子が冬至の日に天を祭る郊天の儀という重要な儀式が行われていました。
日本にこの儀式が入り、桓武天皇が延暦6年11月に、交野(かたの、現在の交野市・枚方市周辺)で天神を祭っています。
玉・絹織物・黍を供え、牛の生贄を燔(や)いて儀式を執り行ったことが『続日本紀』に書かれています。
冬至の日の出線
冬至の祭は毎年行われるため、祭場が特定されます。
その場所は冬至の太陽が神体山から昇る位置が選ばれたようです。
そうしますと冬至の太陽と神体山と祭場が一直線上に並ぶことになります。
一直線は祭場を基点にして東南東30度の線上になります。
冬至の祭場について薬師寺慎一氏が『東アジアの古代文化』78号で「古代日本における冬至の日の出線」というテーマで研究発表されています。
氏は全国各地の神体山を調査され冬至の祭場を推定されています。
冬至の日の出と神体山と、一直線上にある祭場は神聖な場であることから、神社や寺院が建立されていることが多いとされています。
論文で桓武天皇が天神を祭った場所は、神体山である交野山から冬至の太陽が昇る線上が選ばれています。
線上にある祭場は百済王神社が祭られている丘陵と推定されています。
この冬至祭が美和神社の祭として行われていた祭場について、推測してみたいと思います。
私はかって長船町内の小字地名を千分の一の地図に記入し、地名地図を作ったことがあります。
その際美和神社のはるか下手の山裾にある鳥居の周囲が、鳥居元・鳥居東・鳥居西・鳥居下の地名になっていることが分かりました。
この地名は平地にある神社の周囲に、宮前・宮東・宮後・宮西などと命名されるのと全く同じです。
このことからこの鳥居が神社並みに重んじられていたと推測できます。
この鳥居には参道がないので、美和神社の遙拝所だろうと考えていました。
しかしなぜこの場所が選ばれたのかと長い間疑問に思っていました。
私は当初薬師寺氏の論文を特別に注目して読んだわけではありません。他人事のようにそのようなことがあるのかという程度でした。
ある日地名地図を広げて調べものをしているとき、ふと閃いたのが薬師寺氏の論文でした。ひょっとすると鳥居の位置は30度線と関係があるかも知れないと思ったのです。
早速鳥居を基点にして30度線を引いてみてアッと驚きました。
三和ノ峰の磐座の真上を通過しているのです。
長年の疑問が氷解し、鳥居の位置は冬至の祭場と推測できたのです。
神聖な祭場である鳥居の周囲が、神社並みの地名になっているのも当然と思いました。
その年の冬至の日に鳥居の位置に立って日の出を拝み、磐座の上から昇ることを確認しました。
さらに地名地図で子細に調べてみますと、30度線上に「京尾」という地名があります。
京尾
京尾という地名は珍しい地名ではなく各地に点在しています。
キョウノオと読むことから「経納」の当て字と思われます。
現に経納という地名があります。
京尾は願い事をする際に経筒にお経を納めて埋めた場所ではないかと思われます。
そのように考えられるとしても、冬至祭と関係があるのか、あるいは偶然に線上にあるのか分かりません。
しかし美和神社は神仏習合時代には八幡宮として祭られ、当地の大聖寺が神護寺として重きをなしていました。
仏式で冬至祭が執り行われていたと考えても不自然ではなく、線上に経を納めたのもその儀式であったかも知れません。
このことは今後の検討課題です。
鳥居
美和神社の鳥居
この鳥居は豊島石で造られています。
明治8年鳥居の台石を修理した時、樟で造られた鳥居の地下部分が発見されたと伝えられています。
楠の鳥居が老朽化し、豊島石製の鳥居が新造されたものと思われます。
額には「神八幡宮」(みわはちまんぐう)と刻字されていましたが風化して読めません。
かつて私は鳥居の柱の部分を拓本に採ったことがあります。
こちらも風化のため一字も判読できるものはありませんでした。
昭和50年代に県道拡張工事に伴い、鳥居は参道中腹に移転しました。
元の鳥居の周辺には3本の杉の大木があり、鬱蒼として神域の雰囲気を醸していました。
現地に残っているのは地名のみです。
冬至祭は現在美和神社では行われていません。
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