地名をキーワードにして地域の歴史を掘り起こすページです

地名随想

地名随想

 地名を調べている内に気がついたことや、私なりに理解したことなどあれこれと書いてみたいと思います。

地名の誕生

 三内丸山遺跡は、約5500年前から4000年前の縄文時代の集落跡で、長期に渡り定住生活が営まれていました。
 遺跡からヒョウタン、ゴボウ、マメやクリの栽培が明らかになっています。

 居住者は数百人といわれています。
 共同生活にコミュニケーションの言語がないと暮らしは成り立ちません。

 みんなで獲物を捕りに行く時など、○○山へ行くのか△△谷か、或いは××川へ行くのか、その場所をみんなが認識することによって行動することが出来ます。
 
 認識するには目的の場所の地名という言語が不可欠です。言葉で意思疎通していたことは間違いないと思います。
 その言葉は縄文語であったのに相違ありません。

 三内丸山は大集落ですから行動範囲も広く、従って多くの地名が誕生していたと推測されます。



 私の家から見える山(166メートル)の山頂付近から、サヌカイト製のナイフ形石器や尖頭器(先端がとがった旧石器時代の打製石器)などが発見されました。
 またかつて海の中の小島であった所から石鏃が大量に発見されました。

 山頂は住居兼獲物の見張りの場で、小島は狩猟場であったのでしょう。

 旧石器時代がどのような暮らしなのか分かりませんが、家族単位で大きなエリアを持って食料を確保していたのだろうと想像されます。
 家族で狩猟に行く時に○○山などの地名が必要なことは縄文時代と変わらないでしょう。

 文字に接するのは弥生時代中期ころまで待たねばなりませんが、暮らしに必要な地名とか、ものを数える言語などは、遙かな昔に誕生していたと思います。 

地名と当て字

 地名からしばらく離れます。

 日本人が最初に漢語に接したとき、どのような対応だったのか興味をそそられます。

 当時の日本人が話していた言葉は多分縄文時代に起源を持つ大和言葉(日本語)と思われます。

 口承だけで何不自由なく暮らしていたのですから、戸惑ったのに相違ありません。

 日本は外来の文化を柔軟に受け入れる国ですから、真剣に学び受け入れ方について取り組んだであろうと想像できます。

 『日本書紀』の応神天皇16年2月に、王仁を招聘し皇太子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の先生にして諸典籍を習ったとしています。

 典籍は当然漢語です。豪族達も懸命に学んだのでしょうが、漢語を我が国に受け入れることをしませんでした

 代わりに漢語の音を借りて大和言葉を表記することを開発しました。

 例えば「くにのまほろば」は「久爾能麻本呂婆」と当て字で表記しました。

 
 地名にもこれに似たものがあります。

 「オドロ」は藤葛が群生している状況をいう方言ですが、
 地名に「於土路」と表記されたものが井原市東江原にあります。
 
 「ショウブ」は鉄の意であるソブが転訛したものですが、
 地名には「菖蒲」または「勝負」と表記しました。
 砂鉄産地にたいへん多い地名です。
 
 このように音に見合う漢字を当てたわけです。

 もう少し地名の例を挙げますと、

 轆轤→六郎
 垣ノ段→柿ノ段(垣内の意である垣を柿に当て字)
 秦→幡・畑・畠(秦氏の居住地)
 鋳物師(いもじ)→芋ヶ迫・芋谷など(いもじのじが省略され芋に当て字)
 埋田→梅田

 などなどがあります。

 このような地名は漢字に固執しているととんでもない解釈になってしまいます。
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田がつく地名

 ある山村の地名を調査したことがあります。
 1/1000の地図をコピーしてもらい、
 土地台帳を閲覧しながら地図に小字地名を記入するのが最初の準備です。
 手間のかかる作業ですが基礎資料として必要です。

 記入してゆくうちに「黒ノ田」という地名と出会い、
 山の頂上付近にあるのでびっくりしました。

 田といえば水田と考えるのが普通です。
 もし水田であれば付近にため池がある(あるいはあった)はずです。
 古老に聞くと「とんでもないため池なんかあるわけはない」との話しです。

 調査を終えてもこの地名は不明のまま棚上げでした。

 気に掛かりながら時が過ぎ、
 別の調査で備前市畠田の畠田という地名を検討しているとき、畠と田が一つの地名になるのは何だかおかしいと思ったのです。

 畠田は鎌倉時代に備前刀の鍛刀地で有名です。
 「備前刀匠熊野参詣人願文」(元享元年〈1321〉)に、刀匠守家の住所が「はたけた」になっていますので古い地名です。

 徒労かも知れないと思いながら漢和辞典で「田」を引いて驚きました。
 田の意味に「田畑のように何かをうむ所」があり、古訓に「ところ」があるのです。                       
 長年の疑問が一挙に解決し、
 もっと早く辞書を引いてればと悔やまれ、先入観がいかに邪魔をするか思い知らされました。

 黒ノ田は「黒がある所」の意になります。  
 この周辺は金銀銅鉄などの鉱産物が多い地帯ですから、
 黒はくろがねの黒で砂鉄か鉄鉱石を産出した所と推測できます。

 また畠田は『和名抄』に記載されている香止(かがと)郷内(備前市香登・畠田・福田・伊部付近が比定地)にあり、
 秦氏が居住していた郷です。
 香登の大内神社には境内社に秦河勝を祭っています。
 また畠田の近くには新羅古墳と命名された古墳があります。

 畠田の畠は秦氏の秦の当て字と考えることが出来ますので、
 畠田は秦氏の居住地の意になります。

 田がつく地名はたくさんあります。

 藤田・梶田・林田・黒田・二反田・新田・梅田・福田・庄田などなど、
 挙げてゆけば切りがありません。

 二反田や新田のように水田の意がはっきりしているものもありますが、
 ところの意と解すれば納得できるものが多いと思います。
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