多聞寺
多聞寺
地名の「多聞寺」は集落の最上段に位置し、北側の斜面には「多聞寺下」の地名があります。
「多聞寺」には石垣がかなり残っており当時の面影をとどめています。
喜右衛門屋敷
喜右衛門屋敷は地図でお分かりのように多聞寺の下にあります。
現状は藪ですが「多聞寺」と同様に石垣が残っています。
喜右衛門屋敷の石垣
喜右衛門屋敷の下手に「土井下」という広い面積の地名があります。
土井は土居とも書かれ豪族屋敷の土塁のことです。
そうしますと豪族屋敷とは喜右衛門屋敷であることは明白です。
喜右衛門はこの土地を支配していた豪族で、屋敷が「多聞寺」のすぐ下にあることから考えますと、多聞寺は喜右衛門一族の氏寺として建立されたものであろうと推測されます。
多聞寺集落の隣に稲荷山という集落があります。ここに祭られている稲荷神社の境外末社に「喜右衛門屋敷火防神社」があります。
火防はヒブセと読むのでしょうか。祭神は「比左子神」となっています(『邑久郡史』)。
「火防」は「防火」と同じ意でしょうから、喜右衛門屋敷に祭られた火の用心の神社です。
しかし喜右衛門が住んでいた建物の防火の神であれば、建物の消滅とともに役割は終わりますから、火の用心の神のみが祭られることは無いはずです。
この神は喜右衛門の屋敷神ではなく、喜右衛門と共に集落民がある目的で祭った神であるのに相違ありません。
だから喜右衛門の家屋が消滅しても集落民が祭り、稲荷神社の境外末社として現在に至っているのだと思います。
祭神は比左子神ですがどのような神なのか分かりません。他の神社で祭られている例も見あたりません。
比左子はヒサゴと読むと考えますと、ほぼ同じような言葉に「塞ぐ」があり「ヒサグ」と読みます。防ぐという意味です。
この意を比左子神に当てますと「塞神」になり、喜右衛門屋敷火防神社の「火防」にぴったりです。
これはあくまで推測ですが、無理なこじつけではないと思います。
以上喜右衛門屋敷火防神社について述べましたが、この神社から豪族喜右衛門と配下の一族は火を扱う集団であったと考えられます。
火の扱いに細心の注意を払い、安全を神に祈ったのでしょう。
このことは多聞寺集落の成り立ちを考える上で大きなポイントになるので詳細を後述します。
柿段
地元ではカキノダンと呼称しています。地図でお分かりのように多門寺地区で広い面積を占めています。「段」は段々畑の段で、現状も段の状況を保っています。
では果物の「柿」を栽培していたのでしょうか。「柿段」の柿は果物の意であると考えることも当然できますが、その可能性は極めて小さいと思います。
冒頭に地名は「暮らしや営みに必要なもの」に命名されると書きましたが、柿は生活の必需品とは言い難く地名になることはまずありません。
また県内の小字地名を調べてみても、果物などの産物が地名になっている例は見あたりません。
県内には植物地名はたくさんあります。
笹、桜、菖蒲、葦、菅、梨、柿、梅
などです。
しかし植物本来の意ではなく、当て字で他の意を表しています。
上掲の植物は信じがたいと思われるでしょうがすべて砂鉄採取や製鉄に関係する当て字です。
詳細は別項の「岡山県内の製鉄(たたら)地名」を参照して下さい。
「垣内」という言葉があります。カキウチまたはカイトと読みます。
カキウチは平安時代に和歌にも詠まれていますので古い言葉です。
垣内は垣根の内という意ですが、後に小集落の意になりました。 柿は垣内の垣の当て字で、柿段は小集落の跡であると私は考えています。
県内には柿地名はかなりありますが、その殆どが産鉄地関係の地名が多い地区にあります。
後述している「岡山県内の製鉄(たたら)地名」で柿地名について次のように解説しています。
この地名(柿地名)はほとんど産鉄地周辺にあります。
語源は垣内と思われます。住居の垣ノ内の意です。垣内はカキウチとも読みますから柿は垣の当て字と思います。
柿地名がほとんど産鉄地周辺にあることから、金子、梨子(穴師のアが脱落し梨に当て字されたもの)と同義で産鉄従業員住宅地名であると考えられます。
例えば岡山市北区建部町鶴田にある「カキノコサカ」は漢字に直せば「垣ノ子坂」でしょう。
垣ノ子は金子、梨子とほぼ同意と思います。「子」は人の意です。
「柿段」は元々「垣ノ子段」で垣が柿に当て字され子が省略されたものと推測できます。
柿地名の多くは下記の例のように「子」が省略され「木」が接尾語的に付けられたと考えられます。
(以上の解説と共に次の地名を掲載しています)。
- 柿ノ木谷(新見市大佐大井野)
- 柿木(新見市正田)
- 柿ノ木(高梁市川上町高山市、笠岡市走出、真庭市草加部)
- 柿木ノ坪(井原市野上)
- 柿ノ木田(真庭市西茅部、美作市宮本)
- 柿ノ木ノダン(岡山市北区建部町角石畝)
- 柿木峠(真庭市阿口)
- 柿之町(岡山市北区御津北野)
- 柿木下(岡山市北区真星)
- 柿ノ内(鏡野町寺和田)
- 柿ノ木町(赤磐市仁堀東)
- 柿ノ木坂(備前市吉永町多麻)。
産鉄従業員の住宅は、金子(金は鉄の意)、梨子(穴師のアが脱落し梨に当て字されたもの)、柿(垣の当て字)などが産鉄従業員住宅地の地名になっています。
上記の「柿之町」(岡山市北区御津北野)や「柿ノ内」(鏡野町寺和田)はその適例と言えます。
多聞寺の柿段は産鉄従業員が住んでいた集落跡であると考えてほぼ間違いないと思います。
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産鉄関係の地名
多聞寺周辺の産鉄関係の地名は前項の「鍋蓋」と重複するものがありますのでそれらの解説は省略します。
多聞寺周辺の産鉄関係の地名図
砂鉄堆積推測地
図のように飯井地区の鍋蓋の上流や東須恵地区には産鉄関係地名があります。
これらの付近は花崗岩質で風化して砂鉄が産出したものと思います。
飯井地区の鍋蓋の付近は旧川筋ですからこの当たりに多くの砂鉄が流出していたと考えられます。
流出している場所によって川砂鉄、海砂鉄などと言われていますがここは川砂鉄です。何千年以上の期間に溜まったものと思います。
地図に旧川筋を点線で表していますが、多聞寺集落の沖で合流しています。
この付近一帯は湿地でしたが後に干拓され現在は美田が広がっています。
従って地名も「新田」とか「五反田」などと命名され元の地名は消えていますが、この合流点付近は両方の旧川筋から流出した砂鉄が堆積する最適な場所であったと考えられます。
別項で長船町長船地区の「サナ」(砂鉄の意)を取り上げますが、場所は旧吉井川の分流と香登川が合流した場所です。合流箇所は砂鉄が溜まりやすいと思われることからこの例が参考になります。
藤地名
産鉄地の周辺には必ずと言っていいほど「藤」地名があります。
牛文地区の鍋蓋のすぐ西に「藤木」の地名があります。また飯井地区の鍋蓋から歩いて5,6分の所に「藤木」があり、更に少し離れて「オドロヘ」(オドロは県北で藤の方言です)があります。
これらの場所に生えている藤で「鍋蓋」で使用した莚を編んだものと思われます。
- 新見市赤馬の「金藤」(金は砂鉄の意)
- 総社市山田の「藤砂」(砂は砂鉄の意)
などは、砂鉄採取の藤莚の意をよく表しています。
藤地名については後述する「岡山県内の製鉄(たたら)地名」を参照してください。
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鉱滓
多聞寺集落の南西の方向に十二ヶ谷池という池があります。その上手で鉱滓が発見されました。
鉱滓は金属を精錬する際にできるいわゆる金屎(かなくそ)です。
発見したのは長船町の埋蔵文化財保護に尽力された山崎孝志元教育長(故人)です。
私も現地で採取しました。
出土したカナクソ
しかし未調査ですのではっきりしたことは分かりませんが、この付近に鈩があったと考えてほぼ間違いないと思います(位置は地図に掲載しています)。
多聞寺周辺は県北のような大産地ではありません。
従って本格的な炉ではなく「野タタラ」とか「露天タタラ」といわれる自然の風を利用したタタラであったろうと思います。
先に喜右衛門屋敷火防神社が多聞寺集落の成り立ちを考える上で大きなポイントになると書きました。
野タタラは3,4昼夜焚き続け、天を焦がすくらい大きな火で温度を上げてゆくと言われています。
喜右衛門屋敷に祭られていた防火の神は野タタラの守護神として祭ったと推測されます。
まとめ
喜右衛門は前記の「柿段」に住んでいた産鉄従業員を配下にした豪族であったと想定しても不自然ではないと思います。
先に書きましたが当地を取り巻いている平地は吉井川の後背低地で長い間湿地帯でした。
米の生産で氏寺多聞寺を建立するほどの富が得られるはずはありません。その富は産鉄によるものと考えられます。
多聞寺周辺の過去を振り返ってみますと牛文地区には牛文茶臼山古墳があります。
多聞寺のすぐ南の東須恵地区には山崎古墳群があり、後の時代に畑山大聖寺が建立されました。
東隣の飯井地区には南浦・向山古墳群があり、ある時代に荒池を造り条里制の水田を造成しています。
このような大きな営みが古代から続き、人口も次第に増え豊かな暮らしであったと推測できます。
古墳を造る、寺を建立する、池を造り水田を造成する、米を作る、そのために必要不可欠なものは鉄の工具類や農具です。
鉄の需要はいやが上にも大きく貴重なものでした。喜右衛門一族はある時代に、その鉄を供給したのではないでしょうか。
本項は産鉄地名、鉱滓出土、産鉄従業員住宅跡、喜右衛門という経営者、野たたらの守護神、鉄で得た富で氏寺を建立と推測しました。
これを立証するものは地名と遺物・遺構です。私は地名は史料であると考えています。
紙に書かれた史料には、時に誇張があり或いは虚偽さえあります。
土地に書かれた地名は、文字を知らなかった人々や、読めなかった人々が必要に応じて命名したものです。
虚偽などがあるはずはありません。
しかも地名はすべて地域住民が承認したものです。
冒頭に書きましたが、その地名がなぜ必要であったのかその由来を理解すれば、地域の営みをかいま見ることができると思います。
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