岡山県内の「福」地名
岡山県内の「福」地名
福の地名について
地名を研究する場合、命名された年代が分からないものが多いことに悩まされます。
しかし福の地名の中にはある程度推測可能なものがあります。
例を挙げますと、
『和名抄』に「伊福郷」(旧御野郡、現岡山市北区伊福町付近)があり、同名の郷が外に五箇所あります。
伊福郷に居住していた伊福部氏について谷川健一著『青銅の神の足跡』の中で次のように述べています。
伊福部氏の名前が古記録に散見しているのは彼らが銅鐸の作られた弥生時代だけでなく、そのあとの歴史時代にも採鉱冶金の仕事を受けついでいたことを物語っている。彼らは古墳時代に急激に増大した鉄製品を作る仕事にかかわりあっていたと推定される
としています。
『和名抄』が編纂された承平年間(931~938)以前に伊福郷は命名されていたことが分かります。
伊福は息吹き(いふき)で鉄や銅を吹く意になり、伊福と当て字されたものです。
嘉応2年(1170)福岡荘の作麦畠注文案(『東寺百合文書』)に「百枝月村・吉井村・福原土居・今村・居都村」の地名が記載されています。
福岡荘は現在の岡山市東区吉井・一日市・西祖当たりを中心にした一帯です。
福原土居の場所は分かりませんが、福原は福岡と同類で、福は鉄を「吹く」意の当て字と思います。
土居は豪族屋敷にめぐらした土塁のことですから、製鉄集団を支配した豪族の屋敷と推測できます。
その屋敷が著名であったため福原土居の地名になったのでしょう。
このことから福原土居の一帯が福原という地名であったことが推定できます。
嘉応2年は平安時代末期ですから、その頃には福岡・福原の地名が命名されていました。
因みに福岡荘は大きな産鉄地ですから、それに因んで荘名になつたものと考えられます。
一遍上人絵伝(正安元年〈1299〉)に有名な「福岡ノ市」も荘名の福岡荘にちなんだものです。
一方鈩や鍛冶とは関係がないと考えられる福地名もあります。
『和名抄』の甲斐国都留郡福地郷について、
『日本歴史地名大系』は次のように述べています。
「福地」は、当郷の後身とみられる。なお「フクチ」のよみについて「甲斐名勝志」は「フチ」の仮名とみなし、藤崎(ふじさき)村(現大月市猿橋町藤崎)をその遺称とし、「大日本地名辞書」もこれに従っている。「大月市史」もまた古い検地帳では藤崎を「伏地崎」「伏崎」とも記していること、富士山が「福地」「福士」などと書かれた例もあることを根拠に、「福地崎」が藤崎になった蓋然性を指摘する。一方「日本地理志料」は信濃国伊那郡にも同訓の福智(ふくち)郷があることをあげたうえで、桂川・浅利(あさり)川・笹子(ささご)川の交会する「深淵」の意と解している。山間の川沿いの地であることは信濃の福智郷にも共通しており、地名語源的には興味深い説である。
としています。
岡山県内には高梁市落合町福地があります。
更に福地名には上記のものとは関係なく、佳字として命名されたものもあると思われます。
岡山県内の福地名
この図の茶色の箇所は『岡山県地名大辞典』(角川書店)の小字一覧から採取した地域で、平成の合併前の市町村の地域です。
採取した旧市町村はつぎ通りです。
- 岡山県西部(高梁川水系)
新見市(旧大佐町・旧新見市)
高梁市(旧川上町)
井原市(旧井原市・旧美星町)
総社市(旧総社市・旧清音村)
笠岡市
倉敷市(旧倉敷市・旧船穂町)
早島町。
- 岡山県中部(旭川水系)
新庄村
真庭市(旧中和村・旧八束村・旧川上村・旧美甘村・旧久世町・旧北房町)
津山市(旧久米町)
岡山市(北区建部町・北区御津・旧岡山市・南区灘崎町・東区瀬戸町)
玉野市
注ー岡山市東区瀬戸町は吉井川水系ですが岡山市に一括しています。
- 岡山県東部(吉井川水系)
鏡野町(旧上斎原村・旧鏡野町・旧富村)
美作市(旧東粟倉村・旧大原町・旧勝田町・旧英田町)
勝央町
美咲町(旧柵原町)
赤磐市(旧吉井町・旧赤坂町・旧山陽町・旧熊山町)
和気町(旧佐伯町・旧和気町)
備前市(吉永町・旧備前市・日生町)
瀬戸内市(長船町・邑久町・牛窓町)
福地名は次の通りです。
番号は地図の番号です。
アルファベットは『岡山県万能地図』(山陽新聞社)から採取したものです(小字地名は含まれておりません)。
1福井(高梁市川上町七地)
2福井(高梁市川上町仁賀)
3福岩(井原市美星町黒忠)
4福良(井原市野上町)
5福折(同上)
6福井(総社市福井)
7福砂(総社市山田)
8福谷(総社市福谷)
9福山(総社市軽部)
10福浦桜ヶ市(笠岡市神島)
11福ノ池(倉敷市田ノ口)
12福山(倉敷市粒江)
13福島山(倉敷市船穂)
14福田(岡山市北区御津虎倉)
15福渡(岡山市北区建部町福渡)
16福重(岡山市北区建部町角石畝)
17福留(同上)
18福永(同上)
19福本(岡山市北区建部町角石谷)
20天福(同上)
21福尾(真庭市上水田)
22福岡(真庭市阿口)
23福成(真庭市久世)
24福王(同上)
25福谷(真庭市鉄山)
26福木(真庭市下徳山)
27福田(真庭市上福田・中福田・下福田)
28福永(鏡野町寺元)
29福岡田(鏡野町原)
30福ノサコ(鏡野町下原)
31福島(津山市神代)
32福富(津山市久米川南)
33福田(津山市福田上・福田下)
34地福(美作市中谷)
35福井(勝央町植月東)
36福吉(勝央町福吉)
37福谷(美咲町百々)
38福ノ原(美作市古町)
39福岡(美作市今岡)
40福原(美作市壬生)
41福本(美作市福本)
42福田(赤磐市福田)
43福近(赤磐市仁堀東)
44福飛(赤磐市平山)
45福田(赤磐市西勢実)
46福飛(赤磐市山手)
47福万(赤磐市惣分)
48福市(同上)
49福井(赤磐市東軽部)
50福谷口(和気町田賀)
51福前(和気町矢田部)
52福富(和気町福富)
53福ノ谷(同上)
54福尾(和気町大中山)
55福満(備前市福満)
56福谷(備前市福満)
57福ノ谷(備前市金谷)
58福本(赤磐市稗田)
59弥福(岡山市東区瀬戸町観音寺)
60福井(備前市坂根)
61福原(備前市西片上)
62福裏(同上)
63福岡(瀬戸内市長船町福岡)
64福永(瀬戸内市長船町福永)
65福里(瀬戸内市長船町福里)
66福吉(瀬戸内市邑久町山田庄)
67福元(瀬戸内市邑久町福元)
68福山(瀬戸内市邑久町福山)
69福中(瀬戸内市邑久町福中)
70福原(瀬戸内市邑久町豊原)
71福谷(瀬戸内市邑久町本庄)
72福谷(瀬戸内市邑久町福谷)
73福治(岡山市東区福治)
74伊福(岡山市北区伊福町)
75福谷(岡山市北区東山内)
A落合町福地(高梁市落合町福地)
B福松(高梁市成羽町福松)
C福原(井原市芳井町福原)
D福原(倉敷市真備町福原)
E福富(岡山市南区福富)
F福田(岡山市南区福田)
G大福(岡山市南区大福)
H福谷(岡山市北区福谷)
I福崎(岡山市北区福崎)
J福沢(吉備中央町福沢)
K福井(真庭市福井)
L福谷(真庭市福谷)
M福井(真庭市福井)
N福見(鏡野町福見)
O平福(津山市平福)
P福田(津山市福田)
Q福力(津山市福力)
R福井(津山市福井)
S平福(美作市平福)
T上福原(美作市上福原)
U福島(岡山市南区福島)
V福泊(岡山市中区福泊)
W福成(岡山市南区福成)
X福浜町(岡山市南区福浜町)
Y福吉町(岡山市南区福吉町)
以上の福地名のすべてが鈩または鍛冶に関係しているとは思えませんが、その福地名の周辺に産鉄関係の地名が多いとか、遺跡や遺物で確認出来れば鈩または鍛冶の福である可能性が高いと考えられます。
参考までに本ページの「岡山県内の製鉄(たたら)地名」を参照して下さい。
ページのトップへ
福地名と吉井川
図でお分かりのように福地名は吉井川流域に濃密に分布しています。
これは砂鉄の大産地である中国山脈から流れる川が、県内の半分近くを吉井川水系が占めていることと関係があると思います。
この福地名のすべてが鈩、鍛冶に関係した地名なのかは分かりませんが、川砂鉄の多さを考えると鈩や鍛冶の福が多いと考えられます。
例えば備前市坂根の「福井」(図の60)から鉄滓が出土していることから福井は鈩の意と考えられることが参考になります。
吉井川下流域の福地名
備前市坂根、瀬戸内市邑久町と長船町の吉井川沿いには福地名がひしめいています。
備前市坂根字福井・長船町福里・同福岡・同福永・邑久町福元・同福中・同福山がそれです。
注目されるのは邑久町福山の「金岡田」・「田黒」・「鍛冶下」・「細工田」です。
「福山」は吉井川の傍らにぽつんとある小山に命名された山名です。
この山名が集落名になりました。
集落名になったのは福山が住民にとって大きな存在であったためと考えられます。
上記の地名の配置は次図の通りです。
「金岡田」の金は「鍛冶下」と関連しますから鉄の意に間違いないと思います。
田は水田の意かも知れませんが、田には場所の意があります。そうしますと金岡がある所の意になります。
「田黒」の黒をくろがねの黒とすれば鉄になります。
畔(くろ)の当て字とすれば盛り上がった所になりますが、金岡田の隣にあることから鉄の関係が濃いことが推測できます。
長船の地名「金黒」から鍛冶滓が出土しているのが参考になります。
「鍛冶下」は上手で鍛冶が行われていたことを示唆しています。
鍛冶の場は金岡田か、或いはその周辺と思われます。
「細工田」は金岡田の隣にあり、また鍛冶が行われていた周辺と考えれば、鍛冶関係の加工場であったとも考えられます。
長船町土師に「細工原」があり土師器の工房跡かと推測されているのが参考になります。
以上福山について見てきました。
また上記の備前市坂根の福井は鉄滓が出土していることから、福は鈩と推測できることは先に書きました。
それ以外の福里、福岡、福永、福元、福中には産鉄に関係する地名はありません。
このことをどのように考えたらよいのか検討してみたいと思います。
試案として長船鍛冶の俗謡「鍛冶屋千軒」を取り上げます。
鍛冶屋千軒
「鍛冶屋千軒 打つ槌音に 西の大名が駕籠止める」
と俗謡に歌われています。
千軒とは数が多いという意味です。
西の大名が駕籠を止めるとは江戸時代の参勤交代の時を思わせます。
しかし長船鍛冶は天正18年(1590)の大洪水で壊滅的な打撃を受け、江戸時代は千軒と表現できる状態ではありません。
この俗謡は隆盛を極めた時代を誇りに思って作られ、箔をつけるために大名を歌い込んだのでしょう。
長船鍛冶は鍛刀の数においても質においても群を抜いて他国に勝り、刀剣王国を形成していたことは周知のことです。
隆盛を極めた時代は千軒と表現してもおかしくないほど、鍛冶屋が軒を並べていたのは間違いありません。
特に応仁の乱(1467)以降戦国大名が乱立した時代から安土桃山時代にいたる約130年間の刀剣の生産は計り知れないほどの数です。
遣明船貿易の日本刀
日本刀の遣明船貿易(1432~1539)の輸出数は20万本前後になるのではないかといわれています(田中健夫『倭寇と勘合貿易』を参照)。
更に私貿易を含めるとその数ははかり知れないといわれています。
戦国時代の鍛刀地は武蔵国から薩摩国まで17カ国に及んでいます。
その中で備前国長船の生産数は群を抜いていたことは論を待ちません。
遣明船貿易でも数打物として大量生産されたと思います。
長船鍛冶の鍛刀地
戦国時代の国内需要と遣明船貿易の輸出を考えると、長船の地のみで賄うことは出来ません。
当然鍛刀地を広げたのに相違ありません。
長船の上手の吉井川左岸は山が迫り鍛刀地の適地は乏しい地形です。
長船の下手の左岸は平野が広がり何処でも鍛冶の場を作ることが出来ます。
しかも鍛冶の鉄や炭を搬入する舟も容易に接岸できます。
先に吉井川下流域の福地名の図を掲載しましたが、鍛冶地名があるのは福山の「鍛冶下」のみです。
しかし密集する福地名の地で長船鍛冶が行われたと推測しても、あながち不当ではないと考えます。
ページトップへ