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浦上氏と関係地名

浦上氏と関係地名

浦上庄と浦上氏

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 浦上庄は『和名抄』に揖保郡浦上郷(播磨国)と記載されている郷名を継承したとされている。
 庄域は揖保川下流域のたつの市南部の揖保町地域から御津町の辺りと推定されている。

 養和元年(1181)12月8日の後白河院庁下文案『新熊野神社文書』に京都新熊野社領二十八庄の一として浦上庄がみえることから平安時代後期には浦上庄が成立していた。

 この浦上庄に浦上氏が誕生する。
 庄名を苗字にして浦上と名乗った。
 浦上氏の初見は『大徳寺文書』にみられる浦上為景とされている。

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 この一族から妙超宗峰が生まれた。
 宗峰妙超は、浦上掃部入道覚性(一国ともいう)の子で、
 後の大徳寺の開山大燈国師である。
 掲載の大燈国師像は狩野永岳筆(1836)。ウィキペディアから転載した。

 その後浦上氏は揖保郡を離れ、備前国の守護代として代々三石城(備前市三石)に拠っている。
 三石城は山城で山頂に築かれていた。その山を城山という。

三石(岡山県備前市)と浦上氏

三石城

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 三石(備前市三石)は備前と播磨の国境にある船坂峠の麓にある。
 旧山陽道が通り、古代には坂長駅が置かれ、中世、近世まで要衝の地であった。

 この地を掌握するために築かれたのが三石城(標高297m)である。
 戦略的に重要なためこの城の争奪をめぐって幾多の戦乱が展開された。

 城は南北朝初期に伊藤大和二郎が築城したとされている。
 室町幕府の成立に伴い、赤松氏が備前国守護職になると、重臣の浦上行景など浦上氏が代々居城して守護代を勤めた。

浦上則宗

 則宗について『国史大辞典』は、

室町時代中期の武将。永享元年(一四二九)に生まれる。宗安の子。美作守。
嘉吉の乱後、赤松政則が一時絶えた赤松惣領家の家督を許されたころ、則宗は政則を輔佐し、応仁の乱の中で赤松氏が播磨、備前、美作三国の守護として再興するのに力をつくした。
文明のはじめ政則が侍所所司の任をうけると、則宗は所司代となり、その後山城守護代を兼ねて、乱中の京都の治政の上にもすぐれた力量を示し、赤松家の宿老として重きをなし、将軍足利義政・義尚らの信任も厚かった。
文明十六年(一四八四)山名の軍勢の播磨侵入に対して政則がその進退を誤ると、則宗は政則を播磨から放逐し、有馬慶寿丸を赤松の家督に立てようとしたことなどは、則宗の実力を物語るものである。
その後政則と和解して山名勢を撃退し、政則の没後に起った領国内の紛乱も、則宗が政則の嗣子義村を奉じて鎮圧した。
文亀二年(一五〇二)六月十一日備前国三石城(岡山県備前市三石)で死去す。七十四歳。

 以上のように記述している。

 則宗は主家で采配を振った有能な知将であったことが伺える。

 則宗が所司代の頃の『陰涼軒日録』文正元年(1466)2月18日の項に、

浦上美作守茶話次語曰 布施下野守発句云 初花ノ春ニナリヌル庭ノ松 浦上次句云 宿ノ梢ノ春ソイロメク(宿の梢の春ぞ色めく) (後略)

 と記載されている。

 室町時代後期の准勅撰連歌撰集である『新撰莬玖波集』(しんせんつくばしゅう)には、

小夜かせもかすめる月の光かな きののりむね
(小夜風もかすめる月の光かな 紀則宗)

 ほか二句が入選している。

 則宗は連歌に親しむ文人であった。
 先祖の文人紀長谷雄の血を引いているのだろうか。
 紀則宗としたのは紀氏の末裔であることを誇りに思っているからであろう。 

 更に「浦上作州悦窓居士肖像」の賛によれば禅門をたたき修行を積んでいたことが分かる。
 浦上一族から生まれた禅僧大燈国師の影響が想像される。

 則宗は浦上氏歴代の中で、大燈国師に次いで傑出した人物といえよう。

浦上村宗

 則宗から村宗までの系譜は諸説あってはっきりしない。

 岡山県瀬戸内市牛窓町千手 弘法寺蔵の「浦上系図」には次のように記載されている。

浦上信濃守則永 普光院殿依被給御首無出頭於信濃国死去
同美作守則宗 舎弟総領被続畢
同掃部助則景 嫡子於片島六月廿四日死去討死
同紀太郎祐宗 依則景討死安富筑後守殿息被養子畢
同掃部助村宗 古近江守殿息則宗おい孫也本筋
(後略)

 上記の系図の信憑性は高いとされている。

 村宗の主家の赤松政則が亡くなり、養子である赤松義村が幼年であったため、政則後室の後見や、浦上氏などの支持を受け、播磨・備前・美作の守護職に就いた。
 その後、勢力を伸ばした守護代村宗と武力抗争を繰り返すことになる。

 大永元年(1521)義村を殺した村宗は、備前東部と播磨西部を支配する戦国大名になった。
 力をつけた村宗は、細川晴元との抗争に敗れた管領細川高国を支援するため上洛の軍を起こした。

 享禄4年(1531年)、晴元たち敵対勢力の中枢である堺公方府へ遠征したが、同年6月に晴元や三好元長に敗北し討死した。

村宗の墓碑
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 村宗の遺体は木谷(岡山県備前市)へ葬られた。
 宝篋印塔が2基伊里川の畔に建立されている。

 2基とも梵字が一字のみで、どちらが村宗の墓碑かはっきりしないが、大きい方だろうと推測される。

 建立されている場所の小字地名は「着到」である。着到は到着の意であるがこのような意味で地名になったとは考えにくい。
 古老の話によると昔はこの辺りは墓碑が累々としていたが洪水で流されたという。
 戦死した兵士の墓碑群だったのだろう。
 村宗の宝篋印塔は花崗岩で作られており当初の墓碑ではないと思われる。

 着到(チャクトウ)はシャクトウが訛ったもので「石塔」(シャクトウ)が本義と考えられる。そうすると古老の話と一致する。
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天神山と浦上宗景

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 宗景の略歴について『国史大辞典』を引用する。

生没年不詳
戦国時代の武将。村宗の次男。
守護赤松義村を討って浦上氏の全盛期を現出した村宗が享禄四年 (一五三一)摂津に討死した後、宗景は兄政宗と和せず、備前国 (和気郡和気町)に拠って、播磨国室津(兵庫県たつの市御津室津)の兄と対立したが、その勢いは次第に兄を凌ぎ、やがて東備・東作一帯を支配下に制圧して、父の時代の勢威を回復した。
ところが永禄の初めごろから被官宇喜多直家が備前西南部で勢力を伸ばし、一方美作には尼子氏についで毛利氏の進出があって、宗景の周辺はようやく急を告げるに至った。
かくて宗景は天正元年(一五七三)織田信長に款を通じ、備前・美作・播磨の所領安堵の朱印状を得たが、このことはかえって宇喜多直家を刺激し、翌二年直家は毛利氏と手を結んで宗景と絶ち、同五年二月ついに天神山城を攻落し、宗景は播磨に出奔して、浦上氏の本宗はここに滅んだ。
磨出奔後の宗景の行方については諸説があって定かでない。

 以上のように記述されている。

 宗景については、
 寺尾克成著「浦上宗景考―宇喜多氏研究の前提』
     (國學院雑誌92-3 1991年)
 森俊弘著『備前浦上氏関連説話の研究―説話に見る浦上氏の盛衰』
     (東備9 2002年7月)
 畑和良著『浦上宗景権力の形成過程』
     (『岡山地方史研究』2003年)
 などの優れた論文がある。
 
 上記の『国史大辞典』は落城を天正5年としているが、天正3年説が有力である。

伝宗景の書

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 ある浦上家が所持している書である。

 箱書について

大永年中 浦上遠江守宗景 
則天神山分時之書

 以上のように書かれている。
 
 「則天神山分時之書」の分かれる時とは、兄の政宗と不和になり、播州室津城から分かれて天神山城へ入城または決意した時と考えられる。

 入城したのは享禄5年(1532)とされているから「大永年中(1521~1528)」とは隔たりがある。

 父の村宗が戦死するのが享禄4年(1531)であるから、それ以前に決意していたのだろうか。
 それとも箱書きの筆者の誤記だろうか。

書について
 
 書かれている詩は次の通りである。

章
臺杉楊柳春
月路傍情
孤峰山人 落款

 この詩の私の解釈は次のとおりである。

盛唐の詩人崔國輔の詩に「長樂少年行」がある。
唐の都長安の若者の意である。

  遺卻珊瑚鞭,
  白馬驕不行。
  章臺折楊柳,
  春日路傍情。

 読みは、
  珊瑚の鞭を遺卻して、
  白馬驕りて行かず。
  章臺楊柳を折る、
  春日路傍の情。

 意訳すると、
 (ダンディーな若者が遊里に)珊瑚の鞭を置き忘れ、
 白馬に跨がったが馬は興奮して進まない。
 (長安の)遊里の傍らの柳を折り鞭の代わりにして、
 長閑な春の日遊女と言葉を交わし合った。

 概ねこの様な詩であろう(章臺は長安の遊里の意)。

 伝宗景の書はこの詩の「章臺」以下の後半部である。
 真筆であるとすれば宗景には漢詩に通じている文化人の一面が感じられる。
しかしこの書は遊里に遊んでいる若者のことではなく、詩に託して宗景の心境を表しているように思われる。
 唐の都長安から地方へ赴任する際、見送りの人が餞に柳の枝を贈る風習があった。柳の多い長安を思い出してほしいという願いだろうか。
 乃ち「楊柳を折る」に今の暮らしに決別する決意と兄と袂を分かつ孤独の心境を込めているのではなかろうか。
 そのように解釈すると「孤峰山人」の署名とよく呼応する 
 この書の落款が宗景のものと判明すれば真筆と判断できるのだが、今のところ真偽は不明である。

落城後の資料

 天正3年(1575)天神山城は、宇喜多直家に攻略されて落城し、播磨国へ退去するのだがその間の動向については諸説がある。列挙すると、
 『和気絹』・『吉備前秘録』 ・『備陽国誌』・『備前軍記』・『天神山記』・『吉備温故秘録』などである。
 その中で筆者が伝承などと照合して大筋で最も事実に近いと思っている『吉備前秘録』を引用する。

城を落て邑久郡牛窓に引退く。
此時嫡子宗秀並家人日笠弾正を始め譜代恩顧の者少々付まとい落行き
其外従類悉く山林に逃隠れける。
中にも宗景の末子二歳になりしを乳母が懐に隠し
邑久郡飯(飯井:筆者注)の城主高取備中守は姨が聟たる故是を頼む。
高取養育して人と成り後浦上太郎三郎と名乗る
其子孫民間に沈み東須恵村に有とぞ。

 この記述のあらましは、

 ①脱出時の状況。
 ②末子を高取備中守が養育する。
 ③子孫が東須恵村に住むという。

 以上の三つの内容になっている。
 「宗景の末子」としているが「宗景の孫」と考えられるので詳しく後述する。

お姫様伝説

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 この伝説は落城後の脱出中の事件を伝えている。
 『和気郡誌』の「墳墓及び石碑」の項に「姫君生害の地」として次のように記述している。

日笠村大字日笠下字下山崎の東山腹。古木鬱蒼たる所にあり。
天神山落城のとき、御姫様生害の地なりと、口碑に伝ふ。

 この口碑の主「御姫様」は城主浦上宗景の娘のことで、下山崎の山腹で自害しその地に祭られたことを伝えている。

 最近では山陽新聞(2002・3・15)の「巨樹シリーズ」で、和気町日笠下の「お姫様のムクノキ」というテーマでこの伝説を掲載している。関係箇所を転載すると、

ムクノキは和気町日笠下の下山崎地区のシンボルとして親しまれています。根元で二股に分かれ、目通り周囲は4.2㍍、高さは約26㍍で推定樹齢は約400年。(中略)
ムクノキにはお姫さまの言い伝えがある。1577(天正5)年、戦国大名宇喜多直家に攻められた天神山城が落城。城主浦上宗景の姫が落ちのびて、下山崎地区のほら穴に隠れたが、後に病気になり亡くなった。村人たちは姫の死を悲しみ、ムクノキの下に小さな祠を作り祭ったといわれる。(後略)。

 これらの記述から落城後脱出する宗景一行の行動を推理してみよう。

 重臣たちの裏切りで燃えさかる城を後にした宗景一行は、譜代の重臣日笠弾正外若干名の家臣と宗景の娘及び二歳になる子(『吉備前秘録』にいう末子:筆者注)を抱いた乳母である。

 一行は城の東の山伝いに和気町木倉へ出て谷間を下り、股肱の臣である日笠弾正の居城青山城の傍らを通り、日笠川のほとりに出たと推測される。
 脱出のルートはこれ以外には考えられない。
 その日笠川のほとり日笠下の下山崎がお姫さま伝説の地である。

 天神山から日笠下までを地図の上で計れば直線距離で約4㌔であるが、実際の道のりははるかに長い山道である。
 脱出を急ぐ一行は可能な限り早足で山を下り、日笠川のほとりに着いたが、娘は力が尽きたのだろう。
 山道の強行は娘の体力をはるかに超えたものであったのに違いない。
 しかし先を急ぐ一行に介護の時間はなく、断腸の思いで娘を残して出発したのであろう。

 後述するように宗景は娘に高取備中守の弟彌四郎を養子として迎えており、一行の中の二歳の子はこの夫婦の子と推定できる。
 彌四郎は落城の際非業の最期を遂げたのであろう。(後述の若宮神社を参照)。
 娘は夫と死別しさらに息子と生き別れという過酷な運命と体力の消耗に耐えきれず息を引き取ったと思われる。
 或いは『和気郡誌』が伝えるように、武人の娘らしく自害したのであろう。

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 村人は憐れな姫の最期を悲しんで手厚く葬り祠を建てた。
 娘は夫の彌四郎同様に非業の死であったことから、怨霊の祟りを恐れ鎮魂の祭をしたのであろう。

 『和気郡誌』が書かれた明治42年ころは山腹の鬱蒼とした樹の傍らに祭られていたが、後に村中のムクノキの樹の傍らに移して祭られた。

 鎮魂の祭が、現在まで続けられているのは、伝説が架空ではないことをも物語っている。

 ムクノキは樹齢が約四百年とされている古木で、いつとはなしにお姫さまゆかりの木として大切にされている。

 以上の推測は脱出の経路にお姫さま伝説がきっちりと収まることから、事実を伝えていると考えて間違いなかろう。
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飯井村と浦上成宗

飯井村と高取備中守

 備前の鷹取(高取)氏の史料として、太田亮著『姓氏家系大辞典』に、

備前の鷹取氏 和気郡伊部村、真言宗長法寺の貞治四年三月廿三日の寄附状に「公文鷹取弾正能佐」見ゆ。

 と書かれており、貞治年間(南北朝時代)には伊部村(現備前市伊部)周辺を領していたことが分かる。

 宗景が天神山城主になると麾下になり三千石を領し、飯井村(長船町飯井)高松城の城主になった。
 城趾には送電線の鉄塔が建ち遺構はない。
 山麓に館跡と伝承されている土地があり井戸や台石の一部が残っている。

 『邑久郡史』に羽柴秀吉から備中守に宛てた焼物の礼状を収録している。

為音信焼物五つ送給候、御心入の段令祝着候毎度御懇志共候、猶黒田官兵衛可申候、恐々謹言
八月二十七日           羽柴秀吉 花押
鷹取備中守 御宿跡

 秀吉は茶の湯を嗜んでいたから、領地内で作られた備前焼の茶碗を送ったのだろう。

 天神山城が落城した後は宇喜多に随い関ヶ原で戦死した。

高取備中守と浦上成宗

 『吉備前秘録』に天神山城落城後播州へ脱出する間の出来事として、

(前略)宗景の末子二歳になりしを乳母が懐に隠し邑久郡飯(飯井)の城主高取備中守は姨が婿たる故是を頼む。
高取養育して人と成り後浦上太郎三郎と名乗る。
其子孫民間に沈み東須恵村に有とぞ。

 と記述している。

『吉備温故秘録』「巻之三十八」の古城山の項には、

高取備中居城、天神山の麾下なり。祿三千石を領す。
戸川秀安の舅なり、秀家卿の母たま殿と云に内縁有、子を備中守と云、弟に彌四郎といふあり、此彌四郎は宗景の娘を給はり妻とせし由。
死後に子細有て邑久郡飯井村に若宮と祝ひある由、子備中守継で居城、宇喜多家へ仕ふ。戸川肥後守大阪屋敷へ取籠るときも肥後守に与力せず、関ヶ原にて討死にす。

 と記述されている。

 宗景が天神山城へ入城したのが享禄5年(1532)、落城が天正3年(1575)であるから在城43年である。
 宗景はすでに60歳を越していると考えられる。
 60歳を過ぎて2歳の子があるとするのは、不可能ではないにしてもその可能性は極めて低い。

 彌四郎は宗景の娘と結婚し、浦上彌四郎と名乗っているので養子縁組をしている。
 成宗は宗景の末子ではなく彌四郎夫妻の子である。

 高取備中守は豊臣方で関ヶ原で戦死したが、一族は追われる身になった。
 九州の黒田官兵衛を頼って逃げた伝承もある。

 『吉備前秘録』には「宗景の末子」としているが、周囲の目を気にして2歳になる子の父は高取備中守の弟であることを極力秘したのだろうか。

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長船町飯井若宮神社と浦上彌四郎

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 当社は長船町飯井伊良高(いらたか)八幡宮境内に鎮座している。

 前掲の『吉備温故秘録』に「(彌四郎の)死後に子細有て邑久郡飯井村に若宮と祝ひある由」と記述されている若宮神社である。

 彌四郎は死後若宮として祭った経緯について考えてみたい。

 「若宮」について柳田国男監修『民俗学辞典』には次のように解説している。

(若宮は)概して非業の死を遂げた者が祟りをなすのを怖れて、巫女神職のすすめにしたがい、神として祭るに至ったという由来のが最も多く、祭を怠れば直ちに祟り、その活動のはげしさは到底和やかにして偉大な神霊とは比べものにならぬほど人間的で、いわばまだ神になりきれぬ段階ともいうべき性格のものである(後略)。

 彌四郎を若宮として祭ったのは、天神山城落城の際非業の死を遂げたためと考えられる。『天神山記』には家老明石飛騨、延原弾正らが宇喜多と内通し城に火を放ったとしている。

 家老の裏切りで大混乱の中での討死はまさに非業の死で、祟りを怖れ霊を鎮めるため若宮を建立したのであろう。
 前掲書に「死後に子細有て」と書かれている子細とは、非業の死を指している。

 建立したのは兄の高取備中守に相違ない。
 長船町飯井には備中守の住居跡があり土台石の一部や井戸が残っているが、若宮を祭っているのは丑寅(うしとら:北東)いわゆる鬼門の方向である。
 鬼門には災難を避けるため神仏を祭るとされている。

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 本殿の床下は、写真のように亀の甲羅のように石を張り詰めた特殊な構造で、近隣には例がない。
 怨霊を封じ込めるために石を張り詰めたのだろうか。

 またこの床下には頭蓋骨を埋めているという伝承がある。
 この伝承と床下の特殊な構造は関連があるかも知れない。
 その真偽は別にして、このような伝承が生まれること自体が怨霊の祟りを鎮めるために建立されたことを裏付けているようだ。

 現在でも肉親が死んだ場合一年間神社へ参らない。身が穢れているとして祟りを恐れるからである。
 当時の祟り思想は一層強いものであったことは想像に難くない。まして非業の死を遂げた者の祟りは強烈で最も恐れたのに相違ない。

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 長船町東須恵浦上一族の墓地にこの若宮を勧請して祭っている。
 勧請したのは彌四郎の孫である宗利が東須恵村へ移り住んだ時祭ったのだろう。
 しかも本社と同様に屋敷の鬼門の方向である。

浦上成宗

 成宗は天神山城が落城の時乳母が懐に隠して逃れた2歳の子である。
 この子は彌四郎夫妻が産んだ子であることは先に書いた。

 成宗の幼名は与五郎、成人して太郎三郎と名乗った。
 備中守の娘沢を娶り嫡子小左衛門宗利、次男治郎左衛門と三男兵左衛門を生んだ。

 乳母は美作国神田山(こうだやま)城主渋谷権之丞の娘千代と伝えられている。
 法名悲母妙徳尼。墓碑は成宗夫妻の傍らにある。

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関ヶ原と成宗

 成宗を庇護していた高取備中守は宇喜多秀家の麾下になり関ヶ原で戦死した。

 秀家が城主であった岡山城へは豊臣を裏切り徳川についた小早川秀秋が入城した。
 宇喜多方の残党狩りは熾烈を極めたに相違ない。
 高取一族も例外ではなく九州の黒田官兵衛を頼って逃亡したと伝承されている。

 天正3年(1575)天神山城が落城の時、成宗が2歳とすれば関ヶ原(1600)のころは27歳である。
 すでに備中守の娘沢を娶り嫡子の宗利は産まれていたであろう

 高取一族が逃亡したあと、高取と関係が深い成宗一家の暮らしは決して居心地のよいものではなかったと思われる。しかしその暮らしぶりを知るすべはない。
 成宗は飯井村で生涯を終えた。

成宗夫妻の墓碑

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 成宗夫妻の墓碑はラントウ墓(豊島石で作られた家形の墓)で慶安二年(1649)己丑暦七月十八日と刻まれている。
 夫婦墓であるからこの年号は建立年月日だろう。

 墓碑は日蓮宗妙光寺の墓所に建立された。
 平成2年9月18日の豪雨で地盤が緩み危険な状態になったので、東須恵浦上氏墓地へ移転した。墓碑には骨壺が埋葬されていた。
 移転したのは成宗夫妻、乳母千代の墓碑と他2基である。
 成宗の法名は浄悦、妻沢は妙光である。

成宗の付け人

藤原氏の伝承

 長船町西須恵藤原氏の初代は成宗の付け人(身の回りの世話をする人)であったと伝承されている。
 高取備中守の館から西へ約2㌔離れた所に住居がある。

 屋敷内に祠を建てて祭り、文久2年に再建した際の棟札を保管している。
 記載されている内容は次の通りである。

(表面)
于時文久二歳  大工當村高原□市
奉建立鎮守根本祖神繁栄祈
酉九月吉日 願主藤原重右衛門義治
(裏面)
和気郡天神山浦上遠江守家臣知行高七百石藤原茂左衛門天正五歳丑八月十日天神城宇喜  多左京攻落サレ浪人ト相成子息弥左衛共當地ニ落来天保年中相改鎮守祭

画像の説明
 表面に書かれている根本祖神とは藤原家の初代茂左衛門のことと思われる。
 裏面の由緒書から同家の先祖の由来が分かる。

 住居は備中守の館に近いことから、宗景が備中守に二歳の子と乳母を預けた際、茂左衛門親子を付け人として当地に留まらせたと思われる。

 住所は畑山大聖寺の寺域に接している。
 備中守が帰依していた医王寺(真言宗)は大聖寺が本山であることから、備中守が茂左衛門親子の住居を斡旋したのであろう。

 茂左衛門の知行七百石とは可成りの武将である。
 宗景が信頼していた家臣に相違なかろう。

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天狗谷ときみがはか

 宗景は飯井村高松城主高取備中守に二歳の子と乳母を預け牛窓へ向かった。
 『吉備前秘録』に「城を落て邑久郡牛窓に引退く」というのは牛窓港から出航するのが目的である。
 行き先は黒田官兵衛がいる播州である。

 同書の「其外従類悉く山林に逃隠れける」とは落城後宗景に従った者すべてを指しているが、牛窓港で出航を見送った従者も山林に逃げ隠れたであろう。

きみがはか

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 片山廣道氏(牛窓町鹿忍出身、地名研究者、故人)が『故郷地名随想』の中で、天狗谷の「きみがはか」伝説について次のように述べている。

「きみがはか」について語るには千手(牛窓町千手)の岡崎家との深い関係を抜きにしては語れない。
岡崎家の伝承によれば、戦国の世天神山が落城したとき、城主浦上宗景の家臣であった岡崎家の先祖が千手山(千手山弘法寺)を頼り、ついで天狗谷に池を造り田を開き、居を構えてひそかに暮らしたという。
当主左織氏の言によると、「きみがはか」の地所は祖父の藤五郎の名義になっている。また「きみがはかを粗末にする勿れ」の家訓があり、幼児から祖父に手を引かれて参拝させられたという。
岡崎家が考える「きみがはか」の主は先祖が仕えた主君宗景である。(中略)
現地を訪れ、「きみがはか」の向く方角を地図と磁石で測定した所、まさにその方向は天神山であった。
岡崎家では「きみがはか」の碑石は、江戸時代の末頃、一族相集まり協力して建立したものと推測している。

 天狗谷は宗景一行が出航した牛窓港から西へ約四㌔ほどの地である。
 この岡崎家の伝承は『吉備前秘録』の「山林に逃隠れける」という記述と対応している。 牛窓港から近い山林であることから、港まで護衛し一行を見送った家臣であろう。

 「きみがはか」について『備陽国誌』には、

天狗谷にあるのは何の故と云事を不知

 とあり、
 『吉備温故秘録』には、

天狗谷と云、此谷下大池の少し上に、幅一間、長さ二間余り、高さ四尺ばかりの塚あり、これをきみが塚と云

 と記録している。

 『備陽国誌』は落城後百六十年経過した元文二年に書かれているが、そのころには塚があったことが分かる。

 「きみがはか」を漢字で書けば「君が墓」である。
 岡崎家の伝承に従えば「宗景の墓」になるが、宗景を埋葬しているとは考えられない。 
 宗景の供養塔の意で江戸時代末に建立されたと思われる。

 先年千手の長老大重春夫氏の案内できみがはかに参った。
 道は笹や雑木が生い茂り大重氏が刈払機で刈りながら進む状況であった。
 大重氏の話によると、天狗谷の水田は昭和30年代半ばころまで耕作されていたという。 
 現在は荒田になり雑木が生い茂っている。

 きみがはかは「天狗谷」と「後谷」が合流する付近の小高い所に建立されている。
 花崗岩質の立派な石碑で高さは165センチあり「きみがはか」と刻字され、建立年月日などはない。
 石碑は台石に乗せ周囲を自然石で囲い、台石の前には花筒が立てられている。

天狗谷

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 天狗谷の名称は岡崎家の先祖が宗景の家臣であったことから、天神山城の守護神である天之石門別神社を勧請し、祠を建立したことに由来していると考えられる。

 天之石門別神社の祭神は天之手力男命で通称は天狗と云われている。
 だからこそ祭った谷を天狗谷と命名したのである。
 勧請した祠があったのに相違ないが見当たらない。

 岡崎家に伝わる天神山城の落ち武者伝説と地名の天狗谷は、『吉備前秘録』の「其外従類悉く山林に逃隠れける」という記述と対応している。
 天狗谷は天神山城の守護神天狗と結びついている。

 地名は土地という動かないものに命名されている確実な史料であるから、この伝説の信憑性は極めて高いものである。
 天狗については次項で詳述する。

 天狗谷は弘法寺の寺域に接している。
 千手山弘法寺には浦上関係系図や浦上国秀などの文書を保管していることから考えると、為政者浦上氏との関わりがあったのに相違ない。
 岡崎氏の先祖が天狗谷へ隠遁するとき、宗景は同寺に保護を依頼したかも知れない。
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東須恵村と浦上小左衛門宗利

 宗景の孫の成宗には3人の息子がおり、宗利は嫡子で小左衛門と名乗った。
 東須恵村名主馬場治郎左衛門の娘フリを娶り、浦上氏はこの代から東須恵村(長船町東須恵)に住んだ。
 『吉備前秘録』に「…其子孫民間に沈み東須恵村に有とぞ」と書かれているのは小左衛門の代からである。

 小左衛門に関する資料が僅かだが残っている。
 
大般若波羅蜜多経

 美和神社に広高八幡宮当時のものが若干保管されているが、その中に経文を収めた箱がある。蓋の裏には、

万治二己亥年
大般若箱
八月放生会 堂寺弥七良

 と書かれている。
 放生会は八幡宮にとって最も大きな祭である。
 堂寺弥七良は広高八幡宮の神護寺大聖寺の社僧で、寛文6年に同寺が廃寺になってから八幡宮の神職になった。

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 箱には大般若波羅蜜多経が十数巻が収められ、その中に小左衛門が寄進した一巻がある。 同巻の奥書は、

奉寄進 施主東須恵村小左衛門内    
施主東須恵村小左衛門
于時寛文三癸卯年八月上旬書写等
悪筆大聖寺良識書

 と書かれている。
 8月上旬書写であるから8月15日の放生会のために奉納したのだろう。
 
富人

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 万治4年に作られた「郡村地図」の邑久郡地図の下部に記事欄があり、各村の庄屋を紹介したものと、「富人」の住所と名前が書いてある。
 富人には八名の名前が書かれ、その中に「東須恵村小左衛門」(写真の二行目)がある。
 郡内でもかなり裕福であったようだ。

酒造業

 寛文8年酒の醸造を制限する通達が出され、それに基づいて邑久郡内の酒屋が例年醸造する石高732石4斗を半分の366石2斗に減らしている(『邑久郡史』)。
 この文書の員数表には邑久郡内の28軒の酒屋が列記され、減額後の石高が記載されている。

 この表の中に「弐拾石 東須恵村小左衛門」がある。
 半分が20石だから宗利は40石規模の酒屋を営んでいたことが分かる。
 郡内では牛窓村庄屋三平が112石4斗で群を抜いており、次が40石級で6軒ある。

 小左衛門は郡内ではかなりな規模の酒屋であったことが分かる。

 小左衛門から代々住んでいる屋敷の地名は「上の段」で、一段下がった土地は「中の段」であるが、中の段が醸造場であったようだ。今もいい水が湧く井戸がある。
 しかしいつ頃廃業したのか分からない。

 富人と格付けされたり、氏神へ金品を奉納できたのは、醸造業の営みによる財力であろう。

小左衛門夫妻の墓碑

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 小左衛門夫妻の墓域は豊島石の延石で横幅2㍍58㌢奥行2㍍33㌢の広さに囲ってる。
 墓碑は右が小左衛門で左が妻フリである。
 フリの墓碑はラントウ墓で破損がひどく戒名など確認できないが、フリの墓碑と考えて間違いない。 
 墓碑の後ろには夫妻が埋葬されている(写真参照)。

 小左衛門の法名は「高取院海運」だが、この法名は特殊である。
 一般的には仏教特有の佳字を導師が選んで命名するのだが、この院号の高取は明らかに高取一族の姓である。

 命名の経緯は分からないが、おそらく小左衛門が住職に希望を話し法名を決めたものと思われる。

 宗利の母は高取備中守の娘であり祖父は備中守の弟であることから、高取家に対する深い思慕の念から自らの院号にしたと想像される。
 戒名の海運も意外な感じだがその意を知るすべはない。

ごんそう社

 ごんそう社は浦上氏本家の屋敷内に建てられ、天神山城の守護神である天狗を祭ると伝承されている。
 勧請したのは当地に居を構えた小左衛門と推測される。

 前項でふれたが天神山の山麓に天石門別神社(あまのいわとわけじんじゃ)が祭られている。
 この神社について『和気郡誌』に、

本社創立の由緒、詳ならず。往古字天神山嶺上に鎮座あり。単に天津社と称し(後略)

 と記載され、さらに同書の別項で天石門別神社の祭神は「天之手力男命(あまのたぢからおのみこと)と菅原道真を祭る」と記載されている。

 山麓にある天石門別神社は天之手力男命を祭神として、もと天神山山頂に祭られていた。 祭神の菅原道真は、後の世に山麓に遷座した際に合祀されたものであろう。

 天手力男命は天照大神が天岩屋戸にお隠れになったとき、怪力で岩門を押し開いた神で、後に門の守護神になり外敵や悪霊を防ぐ神として祭られたようだ。

 天神山城に祭られた天石門別神社(天津社)は城門の守護神で、城郭を外敵から守る神として天手力男命を祭ったと考えられる。
 この神は天狗と通称され流布されていた。

画像の説明

 本家の屋敷に天手力男命を祭っている社は天石門別神社とはいわないで、「ごんそう社」といい天狗を祭っている。

 天手力男命は外敵や悪霊の侵入を防ぐ門の神になったのは、寺門の仁王が仏法の守護神として祀られたのと同じ発想であろう。
 仁王と同じように力が強く、厳めしい形相をした神とイメージされたと考えられる。

 「ごんそう」とは厳めしい形相をした神の意で、漢字を当てれば「厳相」がふさわしい。
 さらに厳めしい形相から天狗と結びつき、天神山城の守護神は天狗であるという通称が生まれたのであろう。
 ごんそう社に祭る天狗とは天手力男命のことである。

 前項で牛窓町千手の岡崎家に伝わる天神山落ち武者の伝承で、隠遁した谷が天狗谷と命名されたのは、天神山城の守護神天狗に由来すると推定した。
 祭神は天狗という通称を岡崎家の先祖は知っていたのに相違ない。

 ごんそう社の社殿は百年余り経過し老朽化したので、平成18年3月石造の社殿に改修した。
 その際社殿の拝殿も撤去した。

画像の説明

 かつて社の後ろには榎木の老大木があり、木は大きな空洞になっていた。
 台風で倒れる恐れがあり業者に依頼し切り倒した。

 かって県内の老木や大木を調査している民俗学者がこの榎木を調査したことがあり、榎木では目通りの直径が県内で16番目に大きいと話しておられた。
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