地名をキーワードにして地域の歴史を掘り起こすページです

秦氏

 秦氏(はたうじ)は新羅・加羅方面から渡来したと言われています。
 『日本書紀』応神天皇14年・16年条に「弓月君(ゆづきのきみ)が120県(こおり)の民を連れて帰化した」記事があります。
 弓月君は秦氏の祖とされています。

 秦氏は渡来した漢氏(あやうじ)と勢力を二分するほどの大氏族ですが、漢氏が中央の官僚系であるのに対し、秦氏は在地で各種の殖産を行い開拓の主力になりました。

 秦氏が構築した山城の葛野(かどの)大堰は有名で、その灌漑施設で京都盆地を開墾し農耕・養蚕を行いました。
 また秦氏の故郷(弁辰、加羅地方)は鉄の大産地であったことから、製鉄技術を持って渡来したとされています。

 山城国葛野に本拠を持った秦氏は、その支配下に秦人・秦人部・秦部などを置き、その範囲は筑前・豊前・伊予・讃岐・備中・備前・美作・播磨・越前・越中・尾張・伊勢・美濃に及んでいました(平野邦雄『帰化人と古代国家』)。

 岡山県内の地名には松尾(秦氏の総氏神松尾神に因むもの)と半田(ハタが訛ったもの)が最も多く、続いて秦・畑・幡があります。

 当地には集落名の畑、畑山大聖寺の山号、高畑山の山名があり秦氏ゆかりのものです。

条里制水田

 秦氏は高度な農業土木技術を駆使して灌漑用のため池(荒池)を造り、条里制水田を造成しました。
 当地の条里制水田には三ノ坪などの坪地名が7箇所残っています。

 条里制について『広辞苑』には、

日本古代の耕地の区画法。おおむね郡ごとに、耕地を六町(約六五四㍍)間隔 で縦横に区切り、六町間隔の列を条、六町平方の一区画を里と呼び、一里はさらに一町間隔で縦横に区切って合計三六の坪とし、何国何郡何条何里何坪と呼ぶことで地点の指示を明確にし、かつ耕地の形をととのえた。

 としています。
 当地の水田がいつ頃造られたのか分かりませんが、写真のようにほぼ原形をとどめています。

画像の説明
条里制水田の展望図(画面中央)

画像の説明

       条里制水田の地名図

 図は条里制水田で、反転した地名が現在の地名です。

 地名の中の古川など多くの地名は、のちに条里制水田以前の地名に戻ったものと思われます。
 この地名から元の状況が分かりますので、図中の「鍋蓋」・「足ヶ坪」などの地名については別項で述べます。

 一ノ坪の起点は長船町飯井・同東須恵・同牛文(旧飯井村・東須恵村・牛文村)の境の基点になって現在に至っています。

 この条里制水田を長船町磯上油杉のそれと比較してみますと、両方とも35度右に傾けています。
 また灌漑用のため池は共に「荒池」と命名されています。

 油杉の荒池は土砂が堆積しため池の機能を失っていますが、荒池という地名と堰堤の遺構が一部残っています。
 両水田がこのように類似することから、油杉地区と飯井地区に居住した秦氏は深く関係していたことが想像されます。

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畑山大聖寺

 畑という集落名は「備前国絵図」(正保元年(1644))には「東須恵ノ内畠寺村」と書かれています。

 畠寺村の山中に本坊という地名があり、大聖寺が建立されていましたから、畠寺とは大聖寺に由来する村名です。
 のちに寺が省略され畑と記され現在に至っています。

 この寺は備前48ヶ寺の中に名を連ねていますが、いつ建立されたのか不明です。

 大聖寺文書(慶安元年(1648))によると、本尊は不動明王で寺域には本堂・阿弥陀堂・薬師堂・拾王堂・寂光堂・鎮守堂・鐘楼堂があり、かつて16坊あったが今は6坊と書かれています。

 大聖寺は畑山という山号から秦氏の氏寺と推測できます。
 当地に居住した秦氏は条里制の水田を作り富を蓄え氏寺を建立したものと思われます。

 畑山大聖寺は文禄4年(1595)の『金山寺文書』によると山号は今寺山になっています。今寺とは新しい寺の意です。

 一方畑集落のすぐ東の島集落は「備前国絵図」には「東須恵ノ内嶋寺村」と書かれています。
 畑山大聖寺の元の山号が今寺山であることから、元は嶋寺村に建立されていたのが移転し、今寺山と命名されたと推測できます。

 移転したのは嶋寺村は盆地の中の小山で、寺域の拡張が困難であったためと想像されます。

 嶋寺村は条里制水田の一ノ坪に相当する所です。

畑山大聖寺と広高八幡宮

 6世紀に百済から仏教が伝わり、古来の日本の神と結合が始まって神仏習合思想が生まれました。

 仏や菩薩が権(かり)に神の姿になって現れたとする説で、平安時代末ころに本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が成立しました。

 本地とは仏や菩薩のことです。神宮寺はこの思想から生まれたもので、大聖寺もその一つです。

 平安時代末には八幡宮の本地仏は阿弥陀如来とされています。
 広高八幡宮の祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后ですが、この三神は阿弥陀如来が権(かり)の姿になったものとされました。

 神宮寺大聖寺には阿弥陀堂があり、「阿弥陀堂」という地名があります。

 三和ノ峰にいつの頃か不明ですが、新たに広高八幡宮が建立され、神(みわ)八幡宮(神仏習合時代の美和神社のこと)と二つの八幡宮が祀られていました。

 『大聖寺文書』(慶安元年)に

広高八幡宮但し八幡宮両宮有リ。拝殿二間ニ八間…両宮ノ前ニ有リ

 と記述されています。

画像の説明

        大聖寺文書(冒頭の部分)

 同書に「広高八幡宮」と書かれているのは同寺が神宮寺であるためです。神宮寺は別当寺、神供寺、宮寺などとも呼ばれていました。

 瀬戸内市重要文化財に指定されている美和神社所有の文字瓦には、

天正十三年閏七月拾三日 八幡まいとの(舞殿)コリウ(建立)ツ加満ツリ(仕り)候 すへ(須恵)畑寺 空賢敬白 西蔵坊行海

 とへら書きされています。

   画像の説明

         画像の説明
         文字瓦と拓本

 「すへ畑寺」とは大聖寺のことで、八幡とは広高八幡宮のことです。

 条里制水田などで富を蓄えた秦氏は氏寺大聖寺を建立し、さらに氏神広高八幡宮を建立して、神宮寺になりました。

 隆盛を極めた秦氏の一族は、天正13年には広高八幡宮に舞殿を建立し華やかな祭を展開していました。

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大般若波羅密多経

 写真は大般若波羅密多経を収めた箱と、収められていた十数巻中の一巻で奥書の箇所です。これらは美和神社に保管されています。

   画像の説明
    大般若波羅密多経を収めた箱

 この箱は万治2年(1659)に東須恵村が施主になって作られたもので、同経を収める箱であることが分かります。
 また箱書きの「八月放生会」は、納められた経は8月に行われる放生会に関係するものです。更に堂寺弥七良の署名があります。

 放生会(ほうじょうえ)の放生とは、捕らえた虫、魚、動物などの生き物を解き放って自由にすることで、殺生や肉食を戒め、慈悲を実践する意です。
 その法会を放生会と云います。

 石清水八幡宮で8月15日に行われた放生会は特に有名とされていますが、八幡宮では重要な法会として広く行われていたようです。
 広高八幡宮でも行われていたことはこの史料から分かります。

 堂寺弥七良は大聖寺の社僧(宮僧、神僧ともいう)と思われます。
 神社で仏事を執り行った僧のことで神職より上位であったようです。

 また堂寺弥七良の居住地と思われる所に「堂寺」の地名があります。
 墓も現存し子孫の方が祭っておられます。寛文6年に大聖寺が廃寺になった際に広高八幡宮の神職になりました。

        画像の説明
         大般若波羅密多経の奥書

 経箱中の一巻から奥書部分(写真参照)を見てみますと、同巻の施主は東須恵村小左右衛門(夫妻)で、寛文3年8月上旬に大聖寺の僧良識が書写したことが分かります。
 8月上旬に書写されたのは8月15日に執り行われる放生会に奉納したものと考えられます。

土器の欠片

 写真の欠片は美和神社境内(元広高八幡宮の社地)周辺にある瓦などの捨て場で発見されたものです。

   画像の説明

            画像の説明
             土器の欠片と拓本

 大きさはおおよそ縦横六センチ位で、厚みは約1センチから1.2センチ位です。
 内側が丸みを帯びており、表側の上部が外へ反っているので、丸い器であろうと思います。

 刻字は「祐澄」と「南無阿弥陀仏」ですが「仏」が欠けています。
 祐澄は大聖寺の僧と思われます。

 余談ですが祐澄の祐にこだわってみますと、慶長7年8月11日の年号がある若王子権現十一面観世音の厨子(美和神社保管)には
「畑山大聖寺岡ノ坊 本願権大僧都祐寿」
 と書かれています。
 僧名祐寿と祐澄の祐が注目されます。祐澄はかなり高い位の僧であつたと想像されます。

 先に八幡宮の本地仏は阿弥陀如来と書きましたが、土器に「南無阿弥陀仏」と彫り込まれているのは当然なことです。
 刻字されている位置が土器の肩の辺りと思われます。
 欠片には三行ありますが、土器の肩の周囲に彫り込まれていたことが想像できます。


 平安時代に須恵器の衰退と共に、美和神社(神八幡宮)は生彩を失い、江戸時代に社殿が焼失したとされていますが、焼失しても再建されることなく、ただ祭のみ執り行う状態になっていました。

 山名も三和ノ峰から広高山に変更されました。
 しかし隆盛を極めた神宮寺の大聖寺も退転して寛文6年に廃寺になり、栄枯盛衰の流れはいかんともし難い思いがします。

 明治3年美和神社は式内社として復古し、広高八幡宮の社殿を美和神社社殿として大物主命を祀り、相殿に広高八幡宮の祭神である仲哀・応神天皇と神功皇后ほかを祀っています。
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