地名をキーワードにして地域の歴史を掘り起こすページです

福岡

福岡

備前国上道郡那紀郷

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 福岡という地名を考える上で、当地域の古代からの歴史を見ておきたいと思いますので概略を述べます。

 『和名抄』に記載されている那紀郷の郷域は明確には分かりませんが、吉井川右岸の岡山市東区吉井、同一日市、同西祖を中心にした一帯だろうと推測されています。

多彩な文化

 この地域周辺はは弥生時代から中世にかけて高度な文化が次々と展開しました。
 最も著名なのは前期古墳の浦間茶臼山古墳です。全長120㍍の前方後円墳で、桜井市の箸墓古墳に類似していると言われています。

 更に前期古墳の一日市古墳群、吉井古墳群、矢井古墳群、浅川古墳群などが犇めいています。豪族が割拠し繁栄していた様が伺えます。後期古墳は前期とは対照的に少ないようです。

 奈良時代後期に吉井寺が建立され寺域から平城宮式瓦や緑釉陶器が出土しています。
 百枝月地区には弥生時代中期末ころの遺跡があり、銅鐸2個と破片多数が発見されています。

 当郷には備前国式内式外の古社128社のうち、浅川と西祖の境に福岡神社、吉井に石津神社の2社があり現在も氏神として祭られています。

 平安時代後期に郷内に福岡荘が立荘しました。

 福岡が荘名になったのは当地域で福岡という地名がもっとも著名であったためと思われます。
 福岡神社の社名も福岡という地名に由来すると考えられます。

 特筆すべきは当郷は日本有数の刀剣の生産地で多数の名工が輩出しました。
 鎌倉時代には福岡一文字で知られる刀工集団が生まれ、南北朝・室町時代には吉井・大宮両鍛冶が擡頭しました。

 鎌倉時代に福岡荘の東部(岡山市東区吉井、同一日市、長船町八日市、同福岡、同福永、邑久町豆田の豆田河原付近)で福岡の市が成立し、山陽道随一の経済の中心地として繁栄しました。

 江戸時代初期に福岡村(現長船町福岡)は地方都市的な在町(ざいまち)として繁栄しました。
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製鉄遺跡

 最近、西祖山方前から製鉄遺跡が発見されました。
 これより先に浦間金黒谷から炉壁片が出土しています。
 このことは福岡という地名と深い関わりがあります。

 昭和60年ころ「浦間・西祖地区土地改良総合整備事業」の施工に伴い、埋蔵文化財の調査が行われた際に製鉄遺跡が発見されました。

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 調査結果を平成6年(1994)に『西祖山方前遺跡・西祖橋本(御休幼稚園)遺跡発掘調査報告』に纏め、岡山市教育委員会から発表されました。

 報告書によると、西祖山方前遺跡から炉址と周辺の遺構および排滓場から鉄鉱石の小片が発見されています。このことから原料は鉄鉱石と判断されました。

 同報告書は

この炉の操業開始は遡っても古墳時代前期まで、可能性としては古代前半期(8・9世紀)に求められ、12世紀には停止されていた

 とし、炉址の下手を調査した結果、

谷中央部全域を埋めるに足る量の炭灰層からして、かなりな規模あるいは期間にわたる製鉄炉の操業があったと推察される

 と報告しています。

 更に、

今回は、製鉄炉およびその関連遺構を含めて、一基分のみの検出であった。しかし、黒色土の分布は山形池の池尻(炉址の上手:筆者注)にも広がっており、谷奥部にさらなる別の炉の存在が想定できる。谷全域が製鉄炉操業の舞台であったのである。しかも、谷部を埋める夥しい炭の量は、この谷における製鉄炉の操業が盛んであったことをも示唆している。また弥ヶ奥池下方(山形池の西の谷:筆者注)に西祖田才黒・黒田の小字名が認められるが、これは炭に起因する黒色土の広がり特徴とするところから命名されたと考えられる。
そして、この製鉄炉の発見によって弥ヶ奥池の谷にも製鉄炉が所在する可能性が想定できるようになった。浦間地区の「金黒谷」と併せて、浦間・西祖両地区は鉄生産が盛んな地であったのである

 としています。

 また金黒谷からも製鉄炉壁が出土しています。
 「金黒」の金は鉄の意で、黒は黒金の黒で鉄の意、または畦(くろ)の当て字で盛りあがった状態のことです。
 鉄そのものが地名になったのですから、かなりの規模であろうと想像されます。

 今回の製鉄炉の発見により鉄の大産地であることが分かり、当地の歴史に新しいページを飾ることになりました。
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福岡

 丘陵の一角である山方前の周辺に製鉄集団が居住し、炉を築き鉄鉱石を運び込み、大量の炭を焼いて鉄を作り始めました。

 山方前の隣の弥ヶ奥池の谷は未調査ですが製鉄炉が築かれていた可能性が充分にあります。

 浦間の金黒谷、西祖の山方前一帯は大きな鉄の産地でした。

 私はこの鉄の産地一帯が福岡という地名の発祥地であったと思います。

 炉で鉄を作ることを「鉄を吹く」と言い、銅を作ることを「銅を吹く」と言います。この「吹く」が「福」に当て字されたと考えます。

 吹くが福に当て字された例は古代からあります。
 『和名抄』に備前国御野郡伊福郷などの伊福郷が数カ所記載されています。
 伊福郷は伊福部氏の居住地で製銅あるいは製鉄に従事したとされています。

 広辞苑第5版には「いぶき(息吹・気吹)」(イは息の意。上代はイフクと清音)について、(一)息を吹くこと。呼吸。(二)活動の気配。生気」と記述されています。

 息を吹くことが製鉄・製銅の際に行われる送風の意に転じ、鉄や銅を吹くと表現したのでしょう。

 更に送風の意が製鉄・製銅の全体の意になったと考えられます。息吹が「伊福」と当て字されたものと推測されます。

 福についてもう一つ例を挙げますと、たたら製鉄が盛んに行われていた鳥取県日野郡日南町宮内に、「東楽々福神社」と「西楽々福神社」が祭られています。

 楽々はササと読み砂々(ササ)の当て字で砂鉄のことです。
 楽々福とは砂鉄を吹く意で製鉄全体を意味し、製鉄の神の名称となって祭られています。

 また同町上菅には「菅福神社」が祭られています。
 菅福も楽々福と同じ意です。菅は砂鉄産地の代名詞のようなもので、各産地に菅谷などの地名が多く分布しています。

 嘉応2年(1170)、福岡荘の作麦畠注文案(『東寺百合文書』)に「百枝月村・吉井村・福原土居・今村・居都村」の地名が記載されています。

 福原土居の場所は分かりませんが、福原は福岡と同類と思います。
 土居は豪族屋敷にめぐらした土塁のことですから、製鉄集団を支配した豪族の屋敷と推測できます。
 その屋敷が著名であったため福原土居の地名になったのでしょう。
 このことから福原土居の一帯が福原という地名であったことが推定できます。

 県内に福岡は小字地名として点在しています。

  • 真庭市阿口小字福岡
  • 新見市草間小字福岡
  • 美作市今岡小字福岡

 などです。
 この三ヵ所の福岡の周辺は大きな産鉄地であることが参考になります。

福岡神社

 岡山市浅川と西祖の境付近の小山に福岡神社(祭神武甕槌神經津主神)が祭られています。
 この小山は円錐形に近い山容で、神がこもる甘南備山であったと思われます。

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    福岡神社が祭られている三笠山

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    福岡神社

 社名の福岡は付近一帯が福岡という地名であったことに由来すると推測されます。

 製鉄集団は必ず守護神を祭りますから、当初は「福岡の神」即ち製鉄の神を祭ったと想像しても無理ではなかろうと思います。

 当地の郷名那紀郷は、水辺に自生するナギに由来するという説があります。
 郷内には矢井という地名があり、ヤは湿地の意ですからこの説を裏付けています。

 律令制国家になり班田収受制が施行されて以来、沢沼地は次々に墾田化されたと考えられます。
 水路を作り田を造成するのに必要な工具や、米作りの農具は当地産の鉄で作られたと推測されます。
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福岡荘

 荘園は奈良時代末頃から室町時代にかけて貴族や寺社が諸国に私有した土地のことです。

 『東寺百合文書』によれば、福岡荘は平安時代末期に近いころには成立していたようです。
 荘域は吉井川左岸の現長船町福岡周辺と右岸の岡山市北東部一帯と推定されています。

 『東寺百合文書』の福岡荘に関係する文書には吉井村が度々出てきます。
 建長元年(1249)「吉井村内検目録」によると、同村には一宮、石津宮、常福寺、平安寺が建立されていました。

 一宮は律令時代にその国で第一位の神格をもつ神社ですが、福岡荘に備前国の一宮があったことはありません。
 住民が一宮と称したのは福岡神社が正一位福岡大明神と称されたことがありますから、一宮は「一位の宮」の意かも知れません。

 福岡神社、石津神社ともに本国総社本に記載されている古社です。
 石津宮は現在の石津神社で、先に書いたように両神社とも氏神として祭られています。常福寺、平安寺は現在はありません。

 これらのことから吉井村は現在の岡山市東区吉井よりずっと広い範囲で、福岡荘の中心部であったと推定できます。

 したがって「吉井荘」になっても当然なのに、福岡荘になったのは、吉井より産鉄地の地名福岡の方が大きな存在であったためと考えられます。
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福岡の市

 鎌倉時代末期の福岡の市が著名になったのは、時宗の宗祖一遍上人の生涯を描いた『一遍上人絵伝』(1299)に「福岡市」があり、市の様子が克明に描かれているので、当時の経済や風俗の史料として貴重なためです。

 福岡の市という名称は福岡荘の荘名に由来するものです。
 市と称された範囲は現在の長船町福岡、長船町八日市、吉井川左岸と岡山市東区吉井、同一日市あたりの広い範囲とされています。
 当時の吉井川の主流は福岡の東を流れていました。

 福岡の市が繁栄したのは当地が日本有数の刀剣の産地であり、備前焼の産地が隣接していることなどと、山陽道と吉井川の水運の交差点という好条件がそろっていたためと考えられます。

 南北朝時代の貞和2年(1346)「光信申状案」(『東寺百合文書』)に「福岡村」や「八日市庭」の地名が見えますので、その頃には福岡の市という総称は消え、それぞれに独立していたと考えられます。
 福岡村は福岡の市の名称を継承した村名と思います。

 かっての福岡の市は一日市、八日市、福岡という地名のみが残り現在に至っています。

 天正元年、宇喜多直家が岡山城を占領し、城下町をつくるため備前の各地から多くの商人を岡山へ移転させましたが、福岡からも主だった商人が移転したので寂れてしまいました。

長船町福岡

 寒村になった福岡は、寛永19年(1642)岡山藩が指定した13か所の在町(ざいまち)の一つに選ばれました。

 在町とは田舎にある町の意で、中央の城下町に対して地方都市的な町です。
 近隣では和気・片上・虫明・牛窓・西大寺が指定されています。

 在町になってから商店街が復活しました。往年の山陽道随一の福岡の市には及ばないにしても、相当な活気を取り戻し賑わったようです。

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 その賑わいが「市場小路」という地名から伝わってきます。
 市場小路の周辺には上小路・東小路・西小路・下小路の地名があります。

 これらの地名は市場小路から見て命名された方向地名です(地図参照)。
 したがって市場小路は中央商店街であったことが分かります。
 当時とすれば大変広い道路が作られ、人や荷車の行き来で賑わった様子を彷彿(ほうふつ)とさせます。

 現在の福岡の家並みは当時の面影をよく残しています。
 市場小路から少し離れて「茶屋市場」があります。
 新しい堰堤ができたため今は小さな面積ですが、元は大きな地名だったようです。 川湊が近いことを考えると、飲食遊興街だったのでしょう。
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後小路

 気になるのが「後小路」という地名です(地図参照)。「後」(うしろ)がつく地名については「床ノ後」で触れましたが、宮後など存在感のあるものの北につく地名です。

 後小路について地元の古老に南側に目立つ建物などがあったのか尋ねたことがありますが、そのようなものはなかったという返事でした。

 宝永2年(1705)邑久郡郡奉行へ報告した『本村枝村并山池字帳』によると、福岡村の字に「渡小路」がありますが後小路はありません。

 このことから行書で書かれた「渡」の文字が「後」と紛らわしいため誤読されたのではないかと思われます。

 渡小路とすればその先に対岸と行き来する船着き場があったはずです。
 このことを先の古老に聞きますと、昔の堤防の川側に堤防に沿って長い石垣が築かれ、堤防と石垣の間に舟が下手から入れるように造られていたという貴重な話を聞きました。

 寛保4年(1744)のころ、和気舟番所(現和気町)から下ってくる高瀬舟の舟改が福岡村で行われ扶持米が下りていましたが、高瀬舟の船着き場は現在の後小路の先にある船着き場であったことが推測されます。

 もしそうとすれば渡し場のみならず川湊であったことが十分に考えられます。
 在町として栄えた福岡村ですから水運による物流も当然行われていたと思います。

 以上のことから後小路は誤記されたもので渡小路が正しく、渡小路の先には川湊があったと考えてよさそうです。

まとめ

 本項は古代に岡山市西祖の山方前と周辺に鉄産地が生まれ、鉄を吹くことに由来する福岡という地名が誕生したという推測を大きな柱にしています。

 その福岡が著名なことから福岡荘の荘名になり、後に荘内で繁栄した福岡の市の名称になったと展開しました。
 更に南北朝のころ福岡の市の名称を継承して、福岡村という地名になり、今は長船町福岡です。
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