美和ノ井と雨乞い
美和ノ井と雨乞い
美和ノ井と雨乞い
美和ノ井
美和ノ井は美和神社東の深い谷にあります。通称榊谷と言われています。
谷には池の堰堤の遺構と思われる石が列石状で残っています。
池の位置は分水嶺に近いので砂防目的とは思えません。また谷の規模から考えると池は小さく、灌漑用として田を潤すほどの池ではありません。
美和ノ井の遺構
美和は神(みわ)と同義ですから美和ノ井は神の井と考えられます。
砂防や灌漑用の池であれば、美和ノ井という名称にはなりません。
注目されるのが堰堤に降りる石垣が造られていることです。
堰堤を補修するためのものかも知れません。
もしそうであればよほど大事な池だからでしょう。
あるいは堰堤の上に集まり、行事を行うために通路として必要だったのかも知れません。
天堤
更に注目されるのが美和ノ井から約80メートルほどの下流域に、「天堤」という地名があったと推定されることです(現在はザザラシになっています)。
ここに須恵器の窯跡があり「天堤窯跡」と命名されています。
この名称は元の地名にちなんだものと思われます。
天堤(あまづつみ)は雨包・雨堤・アマ堤・尼堤などと当て字され各地にある地名です。
元の意はアマは雨、ツツミは慎みの意で、雨期に物忌(斎戒)するための籠もり屋のこととされています。
あまづつみの地名はこの籠もり屋にちなんで命名されたと考えられます。
籠もり屋の土台と推測される石垣
この天堤に緩やかな斜面がありそこに石垣があります。
長さは4.2メートルですが一方は土砂で覆われているため分かりません。
石垣の造りから考えると建物の土台と思われます(写真参照)。
この付近が天堤の地名であることから考えると、籠もり屋の建物跡と考えても不自然ではありません。
水神
美和神社に祭る大物主命は雷神、蛇神の伝承を持っています。この伝承は大物主命が農耕神であることを物語っています。
農耕神は日照りに雨をもたらし、長雨に雨を止める能力を持っています。
この属性を水神とし、雨乞いの神として美和ノ井に祭ったと推測できます。そうすると天堤(籠もり屋)と美和ノ井と結ぶことが可能です。
美和ノ井の堰堤へ降りる石垣は供物を持って降り、雨乞いの祈りをするために必要であったのかも知れません。
また美和ノ井を考える場合、三輪山の大神神社が著名な雨乞いの神であったことも参考になります。
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美和ノ井と神功皇后の愛馬白鷹号伝説
神功皇后伝説
神功皇后は架空の人物という説が有力です。
斉明天皇をモデルにして作られたという説もあります。
しかし架空の人物であれ人気は絶大で、その伝説は瀬戸内海沿岸や九州北部を中心に濃密に分布しています。
当地の例をあげますと、『備前国風土記』逸文に
「神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、出でてみ舟を覆さむとしき。住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて投げ倒したまいき。故に其の處を名づけて牛轉(うしまろび)と曰ひき。今、牛窓と云ふは訛れるなり」
とあります。
このような地名にまつわるものや、戦勝祈願、安産祈願をされた神社の伝説などが多く分布しています。
神功皇后の愛馬
これから記述する伝説もその中の一つですが特徴があります。
- 主役は神功皇后ではなく皇后の愛馬であること。
- 多くの地名を結んで物語が展開していること。
- 愛馬が死ぬという悲劇になり、愛馬を神として祭ったこと。
があげられます。
この物語を尻海の郷土史家中江理左衛門が、幕末のころに詳述しています。
要約しますと次のようになります。
牛窓の東の山続きに二つの岬がありその間に白浜がある。
皇后の御座船が潮待ちするためこの浜に近づき、皇后は
「異国の征伐は渡海の戦である。船戦の心得が肝要である。試みに馬を浜に上げよ」
と仰せられた。
御座船から白馬を浜に揚げると、弓矢を携えこの馬に召され、北の岬を的に鏑矢(かぶらや)を射給えば、御めあて違わず的注す。
鏑矢が当たった岬を蕪崎という。
この馬は白馬にて白鷹という。
やがて白鷹を船に乗せようとしてあゆみを渡っているとき、誤って海に転落し北の入り江(錦海湾)を泳いでいった。
泳いでいるとき腹帯が解け、鞍が岩に懸かった。この岩を鞍懸ノ岩という。
更に障泥(あおり、馬腹の両脇を覆う泥よけの馬具)が西の浜に流れ着いた。流れ着いたところをあおり郷(粟利郷のこと)という。
やがて白鷹は犀崎(才崎)に上陸し、北に向かって走り去った。
白鷹は須恵の山にたどり着き、そこで息絶えた。
須恵の住民はこの馬が神功皇后の愛馬白鷹であることを知り、頭骨を氏神として祭った。
この宮山を白鷹山(広高山のこと)と名付けた。
このように見事な物語として書かれています。
私は幼いころ、この物語を祖母から聞いて知っていました。
上記のような詳しい内容ではなかったのですが大筋は違っていません。
愛馬の死
さらに子細に検討してみますと、犀崎(才崎)へ上陸するまでは架空の物語です。
しかし上陸してから後は架空の物語として片づけることは出来ません。
白鷹が上陸した犀崎は元の神坂(みわさか)で、美和神社の祭りで神迎え、神送りをする磐座です。
また白鷹が息絶えた山は美和神社が祭られている広高山です。
物語を作った住民がこの経路を選んだのは、美和神社と深い関わりがあることを示唆しています。
また神功皇后が遠征の途上で、愛馬が死ぬという不吉な物語をあえて作ったのはなぜでしょうか。
美和ノ井と雨乞い
この愛馬(白馬)が死ぬことの周辺を探ってみます。
探るといっても足がかりになる史資料がないので、あくまで推測の域を出ません。
先に美和神社の古代祭祀遺跡「美和ノ井」には、雨乞いの水神を祭ったと推測しました。
そしてある年の雨乞いで、美和ノ井の水神に白馬が生け贄として供えられた事実があり、そのことがこの物語の基になっていると思われます。
雨乞いに白馬が生け贄にされることについて、柳田国男は『山島民譚集』で次のように述べています。
牛馬の首を水の神に捧ぐる風は、雨乞の祈祷としては永く存したりき。朝鮮扶余県の白馬江には釣龍台と云う大岩あり。唐の蘇定方百済に攻入りし時、此河を渡らんとして風雨にあひ、仍て白馬を餌として龍を一匹釣上げたりと云う話を伝えたり(東国輿地 勝覧十八)。白き馬は神の最も好む物なりしこと、旧日本に於ても多くの例あり。
この中で朝鮮の伝説として、風雨を止めるため龍神に白馬が捧げられています。
『続日本紀』には止雨の祈りに白馬が、降雨の祈りに黒馬が生け贄として捧げられている記述が多数あります。
白馬の生け贄
雨乞いの水神を祭ったと思われる美和ノ井で、白馬が生け贄として捧げられた記録も伝承もありません。
しかし美和神社は平安時代、祈年祭には朝廷から供物が下賜された著名な古社です。
かつ祭神は農耕神であることから考えると、長雨で白馬を生け贄にして雨乞いが行われたことは想定できます。
そのことを白鷹伝説が物語っています。白馬である白鷹の頭骨を祭った物語と、雨乞いで白馬の生け贄が捧げられたことが重なるからです。
長雨で困り果てた末、白馬を生け贄にして祈りを捧げた年があったことは容易に推測できます。
それは住民にとって衝撃的な出来''事であったに相違ありません。
このことが長く''語り継がれている間に、神功皇后の愛馬白鷹という名誉な物語にすり替えられたと思われます。
しかし高貴な方が登場する物語は、めでたい結末や有り難い結末になるのですが、この物語は死ぬという悲劇に作られています。
もし白馬の生け贄という事実が無かったなら、この物語は生まれなかったでしょう。
伝説の誕生
伝説はどうして作られるのでしょうか。
自分たちが住む村には、かつてこのような名誉な出来事があったとして、近隣に誇りたい意識が本能的に働きます。
作られたものが史実でなくても、地名や岩石・大樹・泉などと結びつくことで真実味を帯びてきます。
この物語で神功皇后が鏑矢を射て的中したので蕪崎と命名されたとしていますが、この地名は蕪の形に似ている地形から命名されたもので、鏑矢とは何の関係もありません。
このようにして地名にこじつけ、天皇や著名な人物と関係があったかのように作るものが目立ちます。
伝説は地名などと結びつき、信仰にまで高められるとその土地に定着し、長く伝えられることになります。
白鷹伝説はその典型的な例と言えます。
白鷹
伝説の主人公である白馬がどうして白鷹と命名されたのか考えてみたいと思います。
白鷹が息絶えた山は現在の広高山です。
「高」は高宮・高森・高千穂峰などのように尊称として命名される場合があります。
「広」がつく地名には広島・広瀬などたくさんありますが、殆どが面積が広い意で、「広」に尊称がつく地名は見あたりません。
このことから広高山は元は白高山であったものが、シロ →ヒロと訛り広高山になったと考えられます。
白には汚れがない神聖な意がありますから、尊称として地名になります。
広高山の古称は白高山であったと推測できます。
この白高山の白高から神功皇后の愛馬が白鷹と命名されたと思います。
伝説で白鷹にちなんで白鷹山と命名されたと言うのは、名誉な物語にするために箔をつけただけのことで、前記の鏑矢と同じ手法です。
伝説から地名が作られるのではなく、地名から伝説が作られるのです。
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