閂・貫木
閂・貫木
かんぬき地名
閂・貫木は長船町土師にあります(前項の地図を参照して下さい)。
閂(かんぬき)と貫木(かんぬき)は同じ意で、門扉の左右にある金具に差し通す横木のことです。
『角川日本地名大辞典』(角川書店)岡山県版の「小字一覧」を調べてみますと、「カンヌキ」という地名は当所の他に次のものがあります。
- 「カンヌキ」岡山市南区灘崎町迫川
- 「貫抜間(かんぬきま)」岡山市東区浦間
- 「カンノキ」岡山市東区瀬戸町観音寺
- 「東貫抜」・「西貫抜」赤磐市上市
山口県萩市須佐町の閂場
カンヌキについて注目すべき資料があります。
谷川健一編『金属と地名』(三一書房)に、渡辺一雄氏が執筆しておられる「防長地方の金属地名」がそれです。
氏は山口県教育委員会に勤務され、文化財、特に埋蔵文化財に保護行政に携わられた方です。
調査は地名を遺跡発見の重要なてがかりにして、現地調査や聞き取り調査、試掘を行って遺跡の発見に努められました。
その結果を市町村別の一覧表に纏めて発表され、掲出したものはその中の一部です。
閂場の記事があるページ
カンヌキ地名は須佐町弥富上にある「閂場」です。
分類Ⅲは「冶金、特にたたら製鉄に関する地名」で、閂場は田別当鑪場の中にあります。
ではなぜカンヌキがたたら地名なのか考えてみたいと思います。
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鈩の湯口
注目されるのが鈩の湯口です。湯口は融解した鉄を取り出す口のことです。
取り出す際の工程について『新見市史』にわかりやすく解説していますので引用します。
村下(むらげ、たたら場の工場長。筆者注)は永年の経験によって鉄の溶け加減を判断して、火加減を調節する。こうして炭や小鉄(砂鉄。筆者注)を入れる一方、小さな鑪は一杯になってしまうので、頃合いをみて湯口を開ける。するとぶつぶつと浮いた鉄滓とともに真っ赤に溶けた鉄が流れ出る。これを経45㌢、厚さ10㌢くらいの土の型に流し、更に表面が黒くなった程度で冷えないうちに鉄池(金池)に落とし込む。白煙を立てて池の水は一瞬にして熱湯になる(中略)。このように一刻(2時間)おきに湯口の栓を抜いて溶鉄を流し出し、上からは交互に炭と砂鉄を入れ続け、踏鞴は絶え間なく風を送り続ける。四昼夜たつころには鑪の耐久力なくなるので作業を終了する。鑪底にたまったまま残って湯口から出ない鉄を鉧(けら)といっている。これは鑪を壊して取り出し、鉄池に入れて冷却させる(後略)
以上のように書かれています。
この湯口のことをカンヌキと別称したのではないかと思われます。
湯口は「カネ(鉄)を抜く」口であることから、「カネヌキ」が訛って「カンヌキ」になり閂・貫木などに当て字されたという推測です。
この湯口(閂・貫木・貫抜)がたたら場全体の意になったと思われます。
かんぬき
注目されるのが前記の岡山市浦間の「貫抜間」です。
浦間の金黒谷から炉壁が発見され、たたら場であることが確認されています。
浦間と隣接する西祖の山裾一帯は大きなたたら製鉄地であったことを考えると、「貫抜間」がたたら場であった可能性は大きいと思います。
また岡山市東区瀬戸町観音寺の「カンノキ」(カンヌキの訛りと思います)の周辺には「鎌奥」・「湯谷」・「弥福」・「松尾」などの製鉄に関係すると思われる地名があります。
更に岡山市南区灘崎町迫川の「カンヌキ」の上流の奥迫川には「金山谷」・「イモジヤ」などがあります。
閂・貫木の背景
山口県萩市須佐町の閂場はたたら場ですが、当地の土師にある閂・貫木もたたら場の可能性があると思います。
その理由に付近で砂鉄が採取できたと推測できることが挙げられます。
かって吉井川は長船町に入って分流し、デルタ地帯を形成していました。
その内の一本が土師を流れていました。この流れの少し上流に砂鉄を意味する「サナ」の地名があります。
土師はその下流域で、運ばれた土砂の上にできた集落ですから当然砂鉄が採取できたと思います。
またこの地が作刀地であったことは前項で書きました。
作刀地の条件として、
- ①産鉄地に近いこと
- ②赤松炭が豊富なこと
- ③水質がよいこと
- ④焼刃土用の粘土がよいこと
などが挙げられています。
土師郷が作刀地になったのは当地が産鉄地であったと推測しても不自然ではありません。
もう一つの理由は秦氏という製鉄に長けた集団が住んでいたと推定できることです。
土師の氏神木鍋八幡宮は相殿に松尾神が祭られています。
『邑久郡史』には「相殿松尾神社は仁和二年八月山城国葛野郡山田村より勧請」としています。葛野郡山田村に鎮座しているのは松尾大社で、秦氏一族の総氏神です。
木鍋八幡宮
秦氏については度々書きましたが、農業土木や農業生産に従事した渡来氏族で製鉄に長けていました。
松尾神を勧請するくらいですから居住していた秦氏はかなりの人口であったことが分かります。
しかし残念ながら鉄滓や遺構などが出土していません。
この地は洪水で水路が変わり地形が大きく変わっていることから、出土は期待できないかも知れません。
鉄滓や遺構が確認できなければ決定打を欠きますが、須佐町の「閂場」と同様に当地の「閂」・「貫木」もたたら場であったとしても無理ではないように思います。
当地の式内社片山日子神社は平安時代には社殿が建立されていました。
木鍋八幡宮は宝亀3年(772)建立と伝承されています。
さらに当地の正通寺は天安年中(857~59)に桂山に庵を結んだのがはじまりとされ、建仁2年(1202)に甲山に梵閣を建て甲山寺と称したと伝承されています。
建仁2年は「土師郷住」の刀が作られた年より46年前のことです。
このような社殿、寺院を建立するには多くの工具や大工道具と釘などが必要です。
当時は商品経済の時代ではないので、地元の閂・貫木で生産された鉄でまかなったと想像できます。
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