須恵郷
須恵郷
須恵郷の郷域
須恵郷は須恵器生産地に因む郷名で、陶(すえ)が須恵に当て字されたものです。
須恵郷は瀬戸内市長船町東須恵・同西須恵が比定地になっていますが、須恵器製造業という同じ職業で、同じ氏神美和神社を信仰したと推測できることから、分布図のように窯が分布する地域が須恵郷であったと考えられます。
現在の町名を挙げると、
- 瀬戸内市長船町東須恵・同西須恵・同飯井
- 瀬戸内市邑久町本庄・同尻海・同庄田・同福谷
- 瀬戸内市牛窓町長浜の寒風、粟利郷
- 備前市佐山
以上の地域が奈良時代当時の須恵郷であったと推測されます。下図を参照して下さい。
但し分布図上部の長船町磯上は石上郷、長船町土師は土師郷です。
須恵郷の範囲を考える上で重要な史料があります。
平城宮出土の貢進物荷札(木簡)に、
(表)須恵郷調塩三斗(裏)葛木部子墨
があることから、須恵郷に製塩を営んだ海岸があったことが分かります。
その海岸は邑久町尻海と西隣の牛窓町長浜の粟利郷付近が候補地だろうと思われます(両地区とも近年まで塩田がありました)。
須恵器
須恵器は朝鮮半島南東部の伽耶地方から渡来した陶工の手で生産が始まりました。始まったのは5世紀中ごろ「倭の五王」の時代とされています。
『日本書紀』雄略天皇7年の条によると陶部・鞍部・畫部・錦部などの専門技術をもった職能者が渡来していますが、陶部の統率者は新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりべこうき)とされています。
須恵器は大阪府の南部、阪南丘陵地帯で陶邑(すえむら)と称される一帯で生産が開始されました。
この地方は陶土の産出、燃料の確保、輸送の便など生産の条件が揃っていたため、古墳時代から平安時代に至るまで生産が続けられ、窯は1000基に近いとも言われています。
甕・壺や葬祭儀礼用の供膳、供献用品が作られ、中央権力によって支配されていました。
六世紀は古墳時代後期で群集墳の最盛期を迎え、葬祭用や副葬用の須恵器が爆発的に需要が高まった時期です。
須恵郷で須恵器の生産が始まるのは丁度そのころで、6世紀中頃と推定されています。生産は平安時代まで約300年続けられ、中・四国地方では最大級の産地といわれています。
須恵器は轆轤による成形や窯の構築など高度な技術が必要なため、それらの技術を持った集団が移動してきたと考えられます。
彼らは三輪山の神大物主命を氏神として当地の三和ノ峰(美和神社)に祭ったことは先に書きました。
須恵器の物流センター
長船町西須恵西谷地区で、昭和58年圃場整備事業に伴い発掘調査が行われました。
発掘の結果旧石器時代から平安時代までの遺物や遺構が確認され、冊子『西谷遺跡』に纏められています。それによると圧倒的に多いのは奈良時代のものです。
同書には、
西谷遺跡で検出した奈良時代の遺構は、九基の土壙、三条の溝、一棟の建物である。奈良時代の遺構は数が多いだけでなく、出土した遺物の量も極めて大量であった。したがって奈良時代という時期は、西谷遺跡が最も栄えた象徴的な時代と考えられる。
とし、一棟の建物について、
建物は桁行3間(6、20㍍)・梁行1間(3、70㍍)の巨大な掘立柱の建物であった。円形を呈する柱穴の検出面での計測値は、径が1、00mを越す大規模なもので、地形の高い部分には雨落溝が存在した。建物の周辺からは完形品を含む大量の土器が出土し、…。
と報告され、
一棟の巨大な建物には、周辺地域の窯業生産を掌握して、製品の分配や流通を統制していた者が住んでいたのかもしれない。
と推測しています。
須恵器の生産で最も栄えたこの時期は、大量の製品をさばく物流センターは欠かせません。この巨大な建物は上記の通り須恵器の物流センターと思われます
製品の輸送は舟ですから、船着場が近くにあったに相違ありません。センター付近は千町川の上流域で、下ると児島湾に注いでいます。
船着場があった場所ははっきりしませんが、地形から考えて物流センターに近い「内池」という地名の箇所当たりと思われます(地図参照)。
物流センターの目の先にある築山古墳の石棺も、須恵寺の建築資材も、この当たりから荷揚げされたのでしょう。流通センターが機能を発揮できたのは舟運の便が大きく寄与していたのに相違ありません。
「内池」という地名から考えて後にせき止められて池が作られたのでしょう。現在は水田になっています。
「内池」の少し下手の川沿いに「札崎」という小さな集落があります(地図参照)。江戸時代には船着場があり、高札が立てられていたので札崎という地名になったと伝えられています。
須恵寺
ブルーライン邑久インターで降りると県道備前牛窓線に接続しています。右に2、3分進むと長船町西須恵です。
須恵寺は西須恵のほぼ中央寺村地区にあります。寺村は須恵寺に由来する地名です。
須恵寺は本格的な調査はされていません。2カ所の建物遺構と出土した瓦などで推測されています。
遺構は乱石積基壇と版築基壇で、その位置から寺域は一辺100〜150メートル平方と推測されています。
出土した瓦から須恵寺の創建年は7世紀中ごろの飛鳥時代と推測され、奈良時代には七堂伽藍を備えた立派な寺院が完成されたと考えられています。
また備前地域で最も早く建立された寺院と言われています。いつごろ廃寺になったのかはっきりしませんが、中世ころの巴文軒丸瓦が出土しているのが参考になります。
この寺の造営主は須恵器生産を基盤にした豪族であることは間違いないと思います。この豪族は群集墳の最盛期に当たり、葬祭用の須恵器生産で富を蓄えたことは容易に推測できます。
この豪族は朝鮮半島とパイプを持っていたようです。創建時の瓦は蓮弁の特徴から畿内には類例が無く、朝鮮半島と直接的な関係が推測され、古新羅瓦の影響が考えられるとされています。
7世紀末ころには川原寺(飛鳥・藤原京時代を代表する寺)式軒丸瓦が使用されており、中央政権とのパイプを持つようになったと思われます(『長船町史』)。
新羅との関係が濃いとすれば、須恵寺の北方約700メートル付近にある「熊城」という地名が注目されます。
「熊城」はコマキ(高麗来)からクマキ(熊来)に転訛し、クマキ(熊城)と当て字された地名と考えられます。地元の人はクマンジョウと呼んでいます。
高麗は朝鮮全体の称にもなったことから熊来(熊城)は朝鮮から渡来した人々の居住地と思われます(熊城については次項で詳述します)。
須恵寺で修行した青年
奈良時代に当地の仏教が隆盛している様子がうかがえる文書があります。
天平17 (745)年4月18日の日付がある「知識優婆塞等貢進文」(『正倉院文書』)によると、
「宗我部人足は邑久郡須恵郷戸主宗我部赤羽戸口で年は19才です。法華経1部と最勝王経1部を読むことができます。僧になりたいのでよろしく取りはからい下さい」
という聖大尼公にあてた貢進文です。
経は須恵寺で勉強したのに相違ありません。どれだけの修行僧がいたのか分かりませんが、中でも人足は優秀な青年であったのでしょう。毎日読経し修行している姿が目に浮かびます。
安条
須恵寺の南東に「安条」という地名があります(地図参照)。この地名は極めて珍しく、私は県内各地の小字地名に目を通していますが、この地名にお目にかかったことがありません。
かって安条に住んでいた古老から「ここは寺の跡地だ」という話を聞いたことがあります。瓦などの遺物は発見されていませんが古老の話は注目情報です。
須恵寺との位置関係から考えて寺があったとしても不自然ではありません。
アンジョウは安養寺がアンニョウジとも読むことから、アンニョウがアンジョウに転訛したものかも知れません。
しかし何よりも遺構・遺物の発見が待たれます。
市場・市場口
「市場」は地図のように須恵寺の東にある地名です。
市場の中に「市場口」という地名があります。一般的に「口」がつく地名はその本体が重要なものと意識されている場合が多いと思います。
例えば当地の美和神社の参道入り口周辺が「山口」と命名されていますが、この「山」は神南備三和ノ峰を指しています。
市場口という地名は市場が当地の繁栄を支えていた重要な場所であったことを示しています。
当地は奈良・平安時代の後に市場ができるほど栄えた時代はないので、この地名は須恵寺の門前市と考えて間違いなさそうです。