飯井村と黒田氏
飯井村と黒田氏
はじめに
備前国邑久郡飯井(いい)村(岡山県瀬戸内市長船町飯井)の黒田氏は、黒田籐右衛門勝義を初代としている。
勝義は黒田美濃守職隆(もとたか)の嫡子である。
本項は飯井村黒田氏の墓碑、同家保管の『黒田氏家譜』(以下家譜と省略する)、『由来書』および若干の文書と伝承を基にして、初代勝義、二代重義について記述する。
調査は家譜を参照しながら墓碑を調べることから始めた。
現存する墓碑は初代勝義と五代忠頼以降のものであるが、すべて家譜と符合する。
二代重義、三代忠成と四代重成の三基は、土砂に埋もれている可能性が高く未発見である。
黒田氏の墓地は本家のものが二ヵ所と分家のものが一ヵ所にあるが、三ヵ所とも他人名義の山林で、しかも道がなく祭るのに不便なため、平成11年に適地を選んで一ヵ所に移転した。
飯井村に黒田氏の屋敷跡と伝承されている土地がある。
現状は水田であるがほぼ正方形に近い区画で、882㎡の面積である。
宅地として充分な広さである。
丘陵の南側の裾に位置し屋敷の前の道は当時の主要道路であった。
勝義の略歴
勝義の略歴は家譜と由来書に書かれている。
家譜の勝義の項
右馬之助童名一若丸ト号
少年之比病身ニヨッテ播州ヨリ
天神山ニ来暫居
其後同国飯井村黒田孫右衛門ニ便り
名跡ヲ続テ籐右衛門ト号
寛永十二乙亥歳九月廿七日卒
行歳九十二歳
法名常智
母小寺政識女
由来書の勝義の項
(父職隆の由来に続き)
其嫡子右馬之助勝義右衛門之佐義次養子ト成ル
備前天神山ニ来居
次男官兵衛孝隆相続姫路之城主タリ
後豊前ニ居又筑前福岡城ニ移ル
勝義幼年ヨリ病身ユヘ天神山ニタヨリ居ラレシ処
城主浦上氏没落之年同国飯井村同姓孫右衛門義清ニタヨリ居
以上を纏めると、
黒田美濃守職隆の嫡子右馬之助は幼名を一若丸と言い、
幼少の頃は病弱であった。
黒田右衛門之佐義次の養子になり備前国天神山に暫く住んでいた。
その後浦上宗景は宇喜多直家に滅ぼされ、天神山城が落城したので
同国飯井村の黒田孫右衛門義清を便り同所に住んだ。
名跡を継いで籐右衛門と号した。
寛永十二年九月二十七日卒。行年九十二歳。法名常智。
母小寺政識娘。
次男官兵衛は姫路城の城主である。
後に豊前国中津城城主となり、更に筑前国福岡城に移った。
少し補足したが概ね以上の通りである。
勝義の出自
先ず父職隆の略歴を橋本政次著『姫路城史』から引用する。
職隆は幼名甚四郎、本名満隆、初兵庫助、後美濃守と称した。
重隆の嫡子で、大永四年備前福岡村に生まれた。
母は妻鹿氏である。幼少の頃父に伴われて播磨に来り小寺則職に仕えた
が則職深くこれを愛し、天文十四年明石の城主明石備前守正風の女の
十五歳になるが、この頃山城国桂の里の母の許から来て、
正風の膝下にあったのを養い満隆に妻はせ、満隆を猶子とし、
偏諱を与えて職隆と改めさせ、職隆乃ち小寺氏を冒した。
職隆の結婚の事情について司馬遼太郎著『播磨灘物語』は次のように書い
ている。
「兵庫助(黒田兵庫助満隆、後の職隆のこと:筆者注)どのは、よい若
殿輩である。ぜひわしが嫁御前を世話したいがどうであろう」
「すでに嫁は」
持っている、と兵庫助がいうと、籐兵衛(小寺籐兵衛則職のこと:筆者
注)はわかっているのだ、これは話だ、話を聞けとせきこみ、
「わしが世話したい嫁は、わしの養女だ」と、いった。
おもしろい男だった。
兵庫助の現在の嫁を、籐兵衛は養女にするという。
いきなり養女では、身分のへだたりがありすぎて、自然でない。
小寺氏の親族に明石氏がある。
明石氏も赤松のわかれと称する家である。
播州明石郡の山地の伊谷川という所に小城をきずいて、当主は明石
備前守正風といった。
兵庫助の嫁をこの人の養女にし、さらに籐兵衛がそれを貰うという形
にして、あらためて兵庫助に娶せるのである。
それによって黒田氏と播州の名族とのつながりが濃くなり、のちのち
動きやすくなる。
と籐兵衛は思ってくれたのである。
この内容は『姫路城史』の記述と矛盾するところはない。
由来書には勝義は職隆の嫡子として生まれたとしている。
寛永十二年に死亡しているから逆算すると天文十三年に生まれたことに
なる。
桂の里で生まれた職隆の嫁を明石備前守正風の養女にし、更に小寺籐兵衛
の養女にして結婚の形式を整えたのが天文十四年である。
勝義が天文十三年に生まれていても当然である。
勝義備前国天神山城に来居
家譜には右衛門之佐義次につてい、
備前福岡ニ出生備前天神山ニ卒
法名常清
としている。
義次が天神山城主浦上宗景の配下であった資料は他にはないが、宗景と官兵衛との友好的な関係から考えられないことではない。
義次は勝義や官兵衛の大叔父になるからである。
義次の兄と思われる重隆は福岡から姫路へ行くが、義次は福岡へ残っていたのだろう。
勝義が義次に身を寄せたのは幼年の頃より病弱であったため戦国武将として耐えられる体ではなかったためである。
以下宗景と勝義の関係について推測してみたい。
天神山城が落城した後宗景の逃亡先を調べてみると多くの文献に見ることができる。
『和気絹』、『備陽国誌』、『備前軍記』、『天神山記』、『吉備温故秘録』、『増益黒田家臣伝二』などである。
これらの逃亡先はまちまちであるが播州を経由したと言う点では一致している。
播州を経由したのは官兵衛を頼ったのに相違ない。
『備前軍記』には宗景は「播州場芝山へ立退ける」としている。
「場芝山」とは官兵衛の居城「同場山城」(『赤松家播備作城記』)の
ことと思われる。
また浦上宗景の一族である備前国片上の戸田松山城主浦上景行は、
天神山城が落城の後一族郎党と播州へ逃げ、官兵衛に従って豊前国に入国している。
これらのことは両家が友好な関係であったればこそ実現したことである。
特に官兵衛は人情が厚く心配りが行き届いた人柄であるから、あれこれと配意したのであろう。
浦上宗景が落城後官兵衛を頼ったのは、平素友好な関係であった上、
官兵衛の兄勝義を落城まで庇護していたことが推測できる。
勝義が天神山城へ来居したのは直接的には宗景の家臣であったと思われる大伯父の義次を頼ったのであろう。
更に官兵衛が宗景に、「兄をよろしく頼む」と依頼したのであろう。
宗景は勝義を客分として遇したと想像される。
勝義備前国飯井村に居を構える
家譜は義次の子孫右衛門義清について、
故有テ備前飯井村ニ引居
とし由来書には、
(勝義は)城主浦上氏没落之年同国飯井村同姓孫右衛門義清
ニタヨリ居
としている。
故あって飯井村に住んだ義清の墓碑などの資料はないが、黒田氏の一族は天神山城が落城する以前から飯井村に住んでいたという伝承がある。
落城で移住を余儀なくされた勝義が同族が住む飯井村に足が向いたのも当然である。
また飯井村には宗景の家臣で知行三千石の高取備中守がいる。
高取備中守、宗景、官兵衛の関係について触れておきたい。
宗景は落城後逃避行の途中飯井村に立ち寄り備中守に会っている(『吉備前秘録』)。
逃避行の経路については諸説があるが、筆者がもっとも妥当と考えているのは『吉備前秘録』の記述である。
関係箇所をあげると
…宗景の末子二歳になりしを乳母が懐に隠し邑久郡飯(飯井)の
城主高取備中守は姨が婿たる故是を頼む…。
としている。
逃避行の途中飯井村に立ち寄り城主高取備中守に末子(注:孫が正当、成人して東須恵村浦上氏の初代になる成宗のこと)を預けている。
その際に宗景は備中守に勝義の庇護を頼んだことは間違いないと思われる。
播州で大きな存在になっている官兵衛の兄であるから当然であろう。
さらに備中守と官兵衛の関係が推測できる資料に、羽柴秀吉が備中守に宛てた焼物の礼状がある(『吉備温故秘録』)。
為音信焼物五つ送給候、御心入の段令祝着候毎度御懇志共候、猶黒 田官兵衛可申候。
恐々謹言
八月二十七日 羽柴秀吉 花押
鷹取備中守御宿跡
備中守が秀吉に贈った焼物とは当地の名産である備前焼であろう。
茶に親しんだ秀吉だから贈ったのは茶碗と思われる。
その礼状にわざわざ「黒田宮兵衛に話しておく」と書いている。
これは官兵衛と備中守が昵懇な間柄であることを知っているからである。
昵懇な間柄になったのは官兵衛の兄勝義を備中守が庇護しているからであろう。
少し時代が下がるが、備中守は関ヶ原の戦いで豊臣方につき宇喜多秀家に従って戦死した。
秀家の後の岡山城へは豊臣方を裏切った小早川秀秋が入城した。
宇喜多の残党狩りは熾烈であったと想像される。
戦死した備中守の一族は官兵衛を頼って九州へ逃げたという伝承がある。
事実なのかは不明だが、このように伝承されていること自体が備中守と官兵衛が昵懇な間柄であったことを裏付けているようだ。
以上のことを考え合わせると備中守も宗景と同様に勝義を客分として遇したと想像できる。
先に黒田氏が住んだ宅地の伝承地のことに触れたが、冒頭の写真のように北が丘陵で南に水田が広がっている。
宅地の北西約30メートルの山裾に勝義の墓碑があることから、黒田氏は代々ここに住んでいたと考えられる。
現在の面積は882㎡であるが、周囲の状況から考えて当初からこの広さであったろうと推測できる。
勝義の墓碑
平成元年12月飯井村(瀬戸内市長船町飯井)黒田氏の墓碑の拓本を採り、帰路地元のO氏に会った。
O氏と雑談の中で氏は「うちの藪に立派な墓があるので見てくれ」と言われるので案内してもらった。これが勝義の墓碑との出会いである。
聞けば頭部がわずかに露出していたのを掘り出したとのことである。
後に地元の人に聞くと古墳を盗掘した際にはねのけた土で埋もれたのではないかという。
刻字は肉眼で読むことができた。
右下に「寛永十二暦」、中央上部から「南無妙法蓮華経 乗智霊」、左下に「九月廿七日」と彫られている。
墓碑は花崗岩で高さ135センチ、上部の幅は33センチ、下部は39センチである。
墓碑の前には平たい自然石が置かれ供え物の台にし、周辺は小さい自然石を約1.5㎡敷き詰めて墓域としている。
数日後家譜の勝義の項の没年と法名が墓碑の刻字と一致することが分かり勝義の墓碑と確認した。
家譜の勝義の項を再掲する。
右馬之助童名一若丸ト号
少年之比病身ニヨッテ播州ヨリ
天神山ニ来暫居
其後同国飯井村黒田孫右衛門ニ便り
名跡ヲ続テ籐右衛門ト号
寛永十二乙亥歳九月廿七日卒
行歳九十二歳
法名常智
母小寺政識女
墓碑の法名は乗智であるが家譜は常智としている。
それにしても墓碑を掘り出したO氏に偶然出会ったことは希有な幸運であった。
当地で花崗岩の墓碑が作られるのは享保年間以降である。それまでは豊島石のラントウ墓が主流である。
寛永年間に花崗岩で建立した墓碑は当地では類がない。
O氏の了解を得て更に墓域を整備したが、その際ラントウ墓(家形の墓)の扉が出土した。
この扉の出土で勝義の墓碑の周辺には、墓碑が埋もれている可能性が極めて高い。
黒田氏の墓碑で不明なのは、勝義の子の二代重義、三代忠成、四代重成であるが、これらが埋もれていると思われる。
長らく祭られていなかったのは文政年間に一族が他所へ移住したためである。
なお勝義の墓碑と二箇所にある黒田氏の墓碑は他人の山林にあり、祭るのも不便なので適所を選んで一箇所に移転した。
二代重義
二代重義について由来書には次のように書いている。
勝義嫡子四郎左衛門重義ト号ス
天正六年寅正月廿八日天神山出生
父一所ニ飯井村ニ居ス
十六歳ニテ国司浮田氏ニ随テ朝鮮国へ渡海ス
帰陣之節唐人連帰
飯井村ニ帰居ス
是ヨリ代々飯井村ニ居ス
家譜は次の通りである。
四郎左衛門尉
天正六戊寅年正月廿八日天神山出生
文禄年中国守浮田ニ随而十六歳ニシテ朝鮮陣渡海ス
帰国之節唐人二人連来ル
其後国守浮田家ヨリ
ー廉ニ可被申附旨有之候得供対筑前辞退申其儘在所ニ罷有
慶安五壬辰三月廿七日卒
法名信行
天神山城が落城した後の天正六年(1578年)に重義が出生し、父勝義と飯井村へ移住している。
勝義が三十五歳の年である。
文禄の役に従軍したのが十六歳であるから元服後の初陣である。
家譜には宇喜多秀家に従ったとなっているが、直接の上司は秀家の家臣である高取備中守(飯井村高松山城主)に従ったのであろう。
秀家は1万人の兵を動員しているから備中守も出陣したのに相違ない。
飯井村黒田氏が保存している一枚の絵がある。
りりしい顔立ちをしたあっぱれな若武者の絵である(写真参照)。
重義が出陣前に戦死したときの形見にするために書いた自画像だと伝承されている。
この絵は素人が一生懸命に書いた雰囲気がある。
落款には「黒田忠倶」と署名され花押がある。
元服した当時は忠倶と名乗っていたのであろう。
署名は端正な字で花押は見事な筆跡である。
父勝義から薫陶を受け教養を積んでいたことがしのばれる。
唐人二人連れ帰る
家譜に「帰国之節唐人二人連来ル」となっている。
由来書にも同様に記載されている。
唐人とは朝鮮の陶工のことで、中国の唐の意ではない。
連れて帰った陶工をどのように処遇したのか分からない。
飯井村から北へ山一つ越えると備前焼産地の伊部村である。
伊部には文禄の役で陶工十五人連れてきたが定着できず、京都へ送ったという伝承がある。
高取備中守一族は伊部とは深い関係があるから、重義が連れて帰った陶工は伊部へ送ったと想像できる。
黒田長政の要請を断る
二代重義について家譜には次のように書かれている。
其後国守浮田家ヨリー廉ニ可被申附旨有之候得供対筑前辞退申
其儘在所ニ罷有
私なりに補足しながら解釈すると、
文禄の役のあと黒田長政は、岡山城主宇喜多秀家を通じて重義に黒田藩へ来ないかと誘ったが、重義は長政に対して断り、引き続き飯井村に住んだという意になる。
「其後」とは岡山城主宇喜多秀家が岡山城主として健在な時であるから関ヶ原以前である。
「可被申附旨有之」の内容は「来ないか」という誘いである。
ではなぜ断ったのか。
秀吉亡き後天下を狙う有力大名が虎視眈々としている時代である。
秀家は豊臣方で戦うことは明らかである。
長政は豊臣方の石田三成や小西行長らと対立し家康に接近している。
長政は徳川方として戦うことが明らかになっていた時であろう。
家譜の「其後」はそのような状況の時と考えられる。
高取備中守は秀家の家臣である。黒田重義は備中守の配下である。
もし重義が戦いに参加すれば従兄弟の長政と戦うことになる。
重義は恩義のある備中守を裏切って長政の陣に参加することはできなかった。
家譜の「対筑前辞退申」とはそのような状況であろう。
備中守は秀家に従って徳川と戦い戦死するのだが、備中守は重義を関ヶ原に連れて行かなかったと思う。
重義は七十五歳で亡くなっている。父勝義の九十二歳には及ばないが当時の七十五歳は長命である。
墓碑は勝義の墓碑の後ろ付近にあると思っているが、大量に土砂に埋もれているため未発見である。
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