[瀬戸内市の地名と人々の営み]1.瀬戸内市の秦氏
第一章 瀬戸内市の秦氏
『日本書紀』・『古事記』・『新撰姓氏録』などによれば、応神朝に弓月君(ゆつきのきみ) が一二〇の県(こおり) の人民を従えて移住したと記している。渡来の時期は五世紀以降とされている。
山背(やましろ) 国(京都府中・南部)を拠点として秦氏とその支配下の民(秦人・秦人部・秦部)の分布は日本各地にみられその数は膨大なものである。
秦氏は朝廷の蔵を管理し、大和王権の財政をつかさどる一方、灌漑施設、新田開発、農耕、養蚕、製鉄、製塩などの各分野で活躍した殖産氏族である。
政治的には目立った活動はないが、欽明天皇の側近であった秦大津父(はたのおおつち) や、聖徳太子に仕えた秦河勝の存在は、秦氏がその豊かな経済力と財政的手腕によって、大和王権内に大きな力を持っていたことを物語っている。秦氏は東漢氏(やまとのあやうじ) と並んで古代の渡来人中の雄族であった。
秦氏は全国的に組織された大きな集団であるが、擬制的集団といわれている。血縁の集団ではなく地縁で、集団の生業に賛同するものはその傘下に集まった集団とされている。