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[瀬戸内市の地名と人々の営み]1.3.瀬戸内市の製塩と秦氏

瀬戸内市の製塩と秦氏  

 備讃瀬戸(瀬戸内海中部)は塩の著名な産地であった。製塩が確認できるものは遺跡と木簡である。
 

瀬戸内市の製塩遺跡分布図

瀬戸内市の製塩遺跡分布図

 この図は岩本正二・大久保徹也著『備讃瀬戸の土器製塩』から引用し、地名を加筆したものである。

 木簡
 平城宮出土の塩に関係する木簡は次の四点である。
 一 備前国邑久郡方上郷寒川里
   白猪部色不知塩二尻
 
 二 須恵郷調塩三斗
   葛木部子墨
   注ー須恵郷は邑久郡須恵郷である。須恵郷は邑久郡以外にはない。
 
 三 備前国邑久郡八浜郷戸主□□
   麻呂戸口大辟部乎猪御調塩三斗  
   注ー八浜郷は『和名抄』にはなく比定地も不明である。
    「大辟部」は大避(酒)部のことと考えられる。
 『日本歴史地名大系』に大酒神社について次の記事がある。

「延喜式」神名帳の葛野(かどの)郡二〇座のうちに「大酒(おほさけ)神社元名大辟神」があり、秦始皇帝・弓月君・秦酒公を本殿に、呉織・漢織を別殿に祀る。「大辟」「大裂」とも記し、大酒明神ともいう。
この記事から大辟部は秦氏の部民と考えて間違いないであろう。
「八浜郷」は『和名抄』にはなく比定地も不明である。

 四 邑久郡八部郷□部宮
   調塩三斗
   注ー「八部郷」は『和名抄』にはなく比定地も不明である。

 これらは調として貢納されたもので土器で製塩された。土器製塩とはどのような製法だろうか。
 『日本大百科全書』は土器製塩について次のように解説している。

専用の土器を用いて専業的に塩を生産する原始・古代の製塩法の一種。海水から食塩を手工業的に製するためには、鹹度(かんど)(塩分濃度)を高める採鹹(さいかん)(濃縮)作業と、水分を蒸発させる煎熬(せんごう)(塩焼き)との二つの作業工程を必要とし、さらに純度の高い精製塩を得るため再煎熬が加えられることがあった。煎熬用に鉄釜などが普及する以前には、そのために特製された、粗製だが内面を平滑にした器壁の薄い土器(製塩土器)が大量に用いられた。関東・東北地方の太平洋岸の一部では縄文時代後・晩期のものがあるが、本格的な土器製塩は弥生時代中期に瀬戸内海の児島付近で開始され、古墳時代中期以後、全国各地の海岸地帯に普及し、平安時代まで存続する。もっとも盛行したのは古墳時代後期(六~七世紀)である。その中心地であった備讃瀬戸地方の製塩土器は、かつては師楽式(しらくしき)土器とよばれた。海岸から離れた内陸、ことに奈良・京都など古代の都城跡とその周辺からも製塩土器がしばしば発見されるのは、焼き塩された精製塩を生産地から運ぶ運搬容器として使用されたことを示しており、奈良時代(八世紀)前後のものがとくに多い。土器製塩の研究は原始・古代における社会的分業や生産力の発展を解明するうえで重要である。

 と解説している。
 土器製塩は弥生時代から長く続いているが、平安時代になると塩田による製塩に徐々に変わった。
 牛窓半島周辺の土器製塩について岩本正二・大久保徹也著『備讃瀬戸の土器製塩』から引用する。

牛窓・錦海湾岸の製塩遺跡群は最も早くから注目された一つであった。ほとんど発掘調査は行われていないが、水原岩太郎・時実黙水さんらが一九三〇年代に実施した踏査活動で遺跡分布が克明に記録されている。丘陵を挟んで牛窓港の北東に位置する錦海湾は波静かな遠浅の海で、後には全面に大規模な塩田が設けられている。背後に山丘が迫り、山腹に刻まれた小さな谷の前面にそれぞれ小規模な海浜砂州が並び、そこが土器製塩の舞台となる。個々の製塩遺跡の規模は他と異ならないと見られるが、湾奥を中心に多数の製塩遺跡がほとんど接して並ぶ。

 と状況を説明している。
 湾奥に並んでいる製塩遺跡の列があるのは、牛窓町長浜地区である。遺跡の列が海岸線に沿っている(図を参照)。
 後に干拓されて畑地になり、更にその沖に五〇〇ヘクタールの塩田が一九五八年に造られたが現在塩田は廃止されている。
 図のようにそれぞれの土器製塩遺跡の周辺にある秦氏関係地名が注目される。
 備讃瀬戸の製塩と秦氏について、加藤謙吉著『秦氏とその民』から引用する。

西日本の土器製塩の中心地である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内海地域)周辺の秦系集団の存在が注目される。備讃瀬戸では弥生時代から九世紀前半まで盛んに土器製塩が行われ、備讃Ⅵ式製塩土器の段階に遺跡数と生産量(とくに遺跡一単位当たりの生産量)が増加する傾向がみられる。大量生産された塩は、畿内諸地域の塩生産の減少にともない、中央に貢納されるようになったと推測されているが、備前・備中・讃岐の三ケ国は、古代の秦氏・秦人・秦入部・秦部の分布の顕著な地域である。備讃Ⅵ式土器の出現期は、秦氏と支配下集団の編成期とほぼ一致するので、備讃瀬戸でも、秦系の集団が塩の貢納に関与したとみるべきかもしれない。

 更に、

ただ備讃Ⅵ式段階の製塩遺跡は岡山県では牛窓湾沿岸と児島束南部・児島西部、香川県では島嶼部に偏在しており、必ずしも三ヶ国の秦系集団の居住地と重複するわけではない。製塩作業のための移動という事実も想定する必要があろうが、備讃瀬戸の製塩と秦系集団の関係は、現状ではその可能性を含みつつも、不詳とせざるを得ないであろう。

 としている。
 加藤氏は秦系の集団が塩の貢納に関与したことを示唆しながら、現状では不詳とせざるを得ないとされている。しかし私は秦氏集団の関わりは深いと考えている。
 その根拠は木簡と地名である。
 先に書いた木簡を再掲する。

備前国邑久郡八浜郷戸主□□
麻呂戸口大辟部乎猪御調塩三斗

 この木簡の「大辟部」が秦氏と考えられることから製塩に従事していたことは確定的である。更に各製塩遺跡の近くに「幡・畑・半田」という秦氏関係地名があることから関わりは深いことが推測できる。
 木簡の「八浜郷」は比定地は不詳であるが、長浜地区の可能性も否定できない。
 
※参考までに製塩関係以外の秦氏に関する文書を掲載する。
 一 夏四月壬辰。(中略)侏儒備前国人秦大兄。賜姓香登臣。
        (『続日本紀』文武二年(六九八)四月三日条)
    注ー邑久郡香登郷(備前市香登)に関係するものである。
 二 備前国邑久郡旧井郷秦勝小国白米五斗(平城宮木簡)
    注ー旧井郷は『和名抄』にはなく、比定地は不明である。
 三 [沙弥勘籍啓]
  謹啓 申可為勘籍沙弥等事
  (中略)
  沙弥慈良備前国邑久郡積梨郷戸主秦造国足戸口秦部国人
  籍早速欲勘籍者
  右件沙弥等、蒙恩沢、其等籍欲早速勘、今事状具、
  即附慈数、謹白、
  宝亀五年三月一二日(七七四年)(大日本古文書)

注ーこの文書は邑久郡積梨郷(つなしごう)に本貫をもつ沙弥慈良に関するものである。
沙弥とは出家して沙弥十戒を受け、比丘になるための修行をしている男性の僧の意である。
文書は沙弥慈良の労役などの徭役(ようえき)免除の上申書であろう。
積梨郷には寺があったことが伺える。更に「戸主秦造」の配下に「戸口秦部」の組織があることからかなり大きな集落であったのだろう。
積梨郡の比定候補地は二箇所ある。
一箇所は牛窓町長浜で、もう一箇所は邑久町虫明から備前市鶴海にまたがる地区である。
長浜地区は先に書いたように大きな製塩地帯である。「津なし川」があるのが根拠になっている。
一方の虫明と鶴海は共に港で栄えた集落である。


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