[瀬戸内市の地名と人々の営み]1.5.長船町磯上と秦氏
長船町磯上と秦氏
長船町磯上は『和名抄』に記載されている石上郷(いそのかみごう)の比定地とされている。
油杉の磐座
磯上地区の油杉集落と山田集落の丘陵にはそれぞれ巨大な磐座があり、油杉山には前方後円墳が、大塚集落の近くには横穴式古墳群がある。奈良時代には日光寺が創建されるなど古代から栄えた地域である。
平野部は水田が広がっているが、吉井川の後背湿地帯で少し大きな雨が降ると冠水し農家を悩ました。近年圃場整備が行われ、排水施設が完備したのでその心配はなくなった。
油杉と条里制水田
油杉は北に丘陵を背負い南西の扇状地に水田が広がる地形である。扇状地には条里制水田が造成された。
現在残っている条理地名は、六ノ坪・八ノ坪・九ノ坪・五ノ坪下(十五ノ坪下であるが十が省略されている)・七ノ坪(同前)である(地図で□に囲った箇所)。
一ノ坪が条里制の区画からはみ出して六ノ坪に隣接しているが、本来の一ノ坪が低地で水田が造成できなかったための代替え地と推測される。
油杉の東は大きな山塊で谷にため池が造られている。近年油杉ダムが造られたが、その下手に荒池という地名があり雑種地になっている。更にその下手に地目が堤で地名が荒池という箇所がある。
このことからかって荒池と命名されたため池があり、永年の間条里制水田を養っていたが、土砂が堆積しため池の機能が失われ放置されたことが分かる。この谷には花揃池と稗田池があるが、近年油杉ダムが造られた。
長船町磯上の南東に隣接する長船町飯井にも条里制水田があり(後述する)、その水田を養っているのが荒池というため池である。
両者の水田は共に約三五度東に傾いている。この酷似している両水田は、造成時に関係があったのではないかと想像される。
参考 条里制について『広辞苑』には、
日本古代の耕地の区画法。おおむね郡ごとに、耕地を六町(約六五四㍍)間隔で縦横に区切り、六町間隔の列を条、六町平方の一区画を里と呼び、一里はさらに一町間隔で縦横に区切って合計三六の坪とし、何国何郡何条何里何坪と呼ぶことで地点の指示を明確にし、かつ耕地の形をととのえた。
としている。
湯次神社
長船町磯上山田集落の山麓に祭られている。祭神は湯次神で備前国古社一二八社の内の一社である。
湯次神社
神仏習合時代は家高八幡宮として家高山の中腹に鎮座していたが、嘉吉元年(一四四一)に現在地に移転した。明治3年旧号に復して湯次神社と社名を改めた。
『邑久郡史』に元の社地について次の記述がある。
本社より東南に油杉と云ひて人烟三十戸許りの地あり。湯次はユズキと読むにより、油杉の地は湯次神社の旧社地にあらざるか。平賀元義は、湯次神社は磯上村湯杉(油杉のこと:筆者注)といふ所に座すと云えり。
と元の社地の伝承を紹介している。
油杉と同類の地名に、滋賀県長浜市浅井町(旧東浅井郡)に湯次(ゆすき)がある。
『和名抄』に「湯次郷」とあり中世には湯次庄になり、現在は地区名の湯次になっている。また同地には式内社湯次神社が鎮座している。
この湯次神社について、谷川健一編『日本の神々』五に『東浅井郡志』の説を次のように紹介している。
湯次の一帯は上代に秦氏の人々が移住し勢力を張っていた土地である。このことは湯次の近くの大井・宮部に秦氏が氏神として奉祀した大酒神社が所在することからも明らかである。湯次・宮部・大井など付近一帯に移住し村落を成していた秦氏の人々が、総氏神である弓月(ゆつき)君(融通(ゆつき)王)を祖神として祀ったのが湯次神社の始まりと思われる。「ユツキ」が「ユスキ」に変化したのは音便によると考えられる。たとえば「ツギツギ」というべきところを『源氏物語』若菜巻には「スキスキ」と書かれている。
この説から湯次は湯次神社を祭ったことから命名された地名であることが読み取れる。
長船町磯上の油杉は、弓月(ゆつき)→湯次(ゆすき)→油杉(ゆすぎ)と転訛したものと考えて間違いないだろう。
当地の湯次神社の祭神は「湯次神」であるが「弓月神」の意で、弓月君を一族の祖神として祀ったのであろう。
油杉は湯次神社を祭ったことに由来する地名であるから、社地は当然油杉にあったわけである。場所は確認されていないが、先に紹介した油杉の磐座は最も有力な候補と考えられる。秦氏は油杉に定住して条里制水田をつくり、石上郷に繁栄をもたらした。
秦氏は秦の始皇帝の子孫と称する弓月君(融通王)が百二十県の人民を率いて渡来したという伝承をもつ氏族である。