[瀬戸内市の地名と人々の営み]1.6.長船町東須恵と秦氏
長船町東須恵と秦氏
当地には集落名の畑、畑山大聖寺の山号、高畑山の山名があり秦氏ゆかりのものである。
条里制水田
秦氏は高度な農業土木技術を駆使して灌漑用のため池(荒池)を造り、飯井沖に条里制水田を造成した。条里制水田には三ノ坪などの坪地名が7箇所残っている。写真のようにほぼ原形をとどめている。
条里制水田内の地名図
条里制水田の展望図
図の反転した地名が現在の地名である。地名の中の古川などは、のちに条里制水田以前の地名に戻ったものと思われる。
この地名から元の状況が分かるので、図中の「鍋蓋」・「足ヶ坪」などの地名については別項で述べる。
一ノ坪の起点は長船町飯井・同東須恵・同牛文(旧飯井村・東須恵村・牛文村)の境の基点になって現在に至っている。
高畑山と大池
長船町東須恵本村の上手に、大池・中池・妻池・小屋ノ谷池の四つの池がある。貯水量は約二〇万立方㍍で約三五㌶の水田を灌漑している。
谷の上手に向かって左の山が高畑山である。標高二〇二㍍で際立った特徴もなく、外観はごく普通の山塊であるが、この山に降り注ぐ雨水はすべて大池に流れ込む。
高畑山と大池
自然の流れでは取り込めない斜面には水路を作って導入しており、大池の大きな水源になっている。
この山には、龍王宮と鍋森神社を祀っている。雨乞いには火焚きの行事が行われていたが今は廃れた。
龍王宮(瓦社)と鍋森神社(石造社)
毎年七月一九日は例祭日で、鍋森神社の幟を立て農家が参拝し、宮司が祝詞を奏上して順雨を祈願している。
大池がいつ造られたのか分からないが、大池の水源である高畑山は、「高秦山」の意と推定できることから造ったのは秦氏であろう。「高」という尊称を自らの氏族名秦氏に冠し、誇りをこめて高畑山と命名したのだろう。
この山に順雨がもたらされ、大池が絶えず満水になるよう願いをこめて雨乞いの神を祀ったのも秦氏に相違なかろう。
トンボ石
大池の底には大きな岩があり「トンボ石」という。この岩には伝説がある。
昔の話じゃが、東の山から大きな岩が空を飛んでな、大池へ落ちたんじゃそうな。それでトンボ石とゆうんじゃ
と伝えられている。
トンボ石
この伝説は高畑山に祀られている鍋森神社か龍王宮を池の底に勧請し、磐座として祀ったことからこの伝説が生まれたものと思われる。
毎年田植え時期になり落水を始める日に、水利組合の役員が堰堤に集まり、池に酒を注いで雨乞いの神に捧げ直会(なおらい)(神と飲食を共にすること)を行う。満々と水を蓄えて頂いたことに感謝しかつ豊作の祈りを込めた神事である。
トンボ石の写真は、平成一七年に十数年ぶりに池を干したとき、露出したトンボ石にしめ縄を張り酒を供えて祭ったときのものである。大きさは底辺で縦約一〇〇㌢、横約六〇㌢、高さ約六五㌢である。
トンボ石が大池造成時に安泰を願って祀った可能性もあることから祀ったのは秦氏であろう。
雨乞いの神鍋森神社
鍋森神社は瀬戸内市牛窓町にも祀られている。兵庫県宍粟市千種町の鍋ヶ森神社は雨乞いの神として有名である。
鍋森は鍋の形をした森の意ではなく、鍋は鈩のことで製鉄神金屋子神を祭っている。
天明四年(一七八四)下原重仲が書いた『鉄山秘書』の「金屋子神祭文」に、
播磨ノ国の志相郡(しそうこおり)、今の岩鍋と云う所に、高天原より一はしらの神天降り座す有り。人民(たみくさ)驚きて如何なる神ぞと問いまつる。神託(つ)げて曰(のたまわ)く、吾(あ)は是れ作金者(かねたくみ)金屋子の神なり…。
更に
…故(かれ)、民集まりて雨乞ふ所を成(つく)り、雨を祈るに、先ず金神(かなかみ)を祭れば、金、水を生みて雨降る事、神の教えがまま也。丹(あか)き誠を抽(ぬきん)でしかば、雨頻りに降る。時は七月(ふみづき)七日の申(さる)の上刻(さかり)なり。
と記述されている。
要約すると播磨の国宍粟郡岩鍋(鉄の大産地)に製鉄神金屋子神を祀った。この神に降雨を祈ったところ雨が頻りに降ったとなる。
金屋子神が雨乞いの神になったのは、鉄は感電しやすく落雷することを知った古代人が、鉄には雷雲を引き寄せる霊力があると信じたのではないだろうか。
雷雲は雨雲であるから後に雨乞いの神しとて祭られたと推測できる。このことがのちに「金屋子神祭文」の伝説になったのだろう。
畑山大聖寺
畑という集落名は「備前国絵図」(正保元年(一六四四))には「東須恵ノ内畠寺村」と書かれている。
畑の山中に本坊という地名があり、この地に大聖寺が建立されていた。畠寺村とは大聖寺に由来する村名である。のちに畠寺の寺が省略され畑と記され現在に至っている。
この寺は備前四八ヶ寺の中に名を連ねているがいつ建立されたのか不明である。大聖寺文書(慶安元年(一六四八))によると、本尊は不動明王で寺域には本堂・阿弥陀堂・薬師堂・拾王堂・寂光堂・鎮守堂・鐘楼堂があり、かつて一六坊あったが今は六坊と書かれている。大聖寺は「畑山」という山号であることから秦氏の氏寺と推測できる。
当地に居住した秦氏は条里制の水田を作り富を蓄え氏寺を建立したものと思われる。
畑山大聖寺は文禄四年(一五九五)の『金山寺文書』によると山号は「今寺山」になっている。今寺とは新しい寺の意である。
一方畑集落のすぐ東の島集落は「備前国絵図」には「東須恵ノ内嶋寺村」と書かれている。畑山大聖寺の元の山号が今寺山であることから、元は嶋寺村に建立されていたのが移転し、今寺山と命名されたと推測できる。
移転したのは嶋寺村は盆地の中の小山で、寺域の拡張が困難であったためと想像される。
嶋寺村は条里制水田の一ノ坪に相当する所である。
畑山大聖寺と広高八幡宮
六世紀に百済から仏教が伝わり、古来の日本の神と結合が始まって神仏習合思想が生まれた。仏や菩薩が権(かり)に神の姿になって現れたとする説で、平安時代末ころに本地垂迹(ほんじすいじやく)説が成立した。本地とは仏や菩薩のことである。神宮寺はこの思想から生まれたもので、大聖寺もその一つである。
平安時代末には八幡宮の本地仏は阿弥陀如来とされている。広高八幡宮の祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后であるが、この三神は阿弥陀如来が権の姿になったものとされた。神宮寺大聖寺には阿弥陀堂があり、「阿弥陀堂」という地名がある。
三和ノ峰にいつの頃か不明であるが、新たに広高八幡宮が建立され、神(みわ)八幡宮(神仏習合時代の美和神社のこと)と二つの八幡宮が祀られた。
『大聖寺文書』(慶安元年)に、
広高八幡宮但し八幡宮両宮有リ。拝殿二間ニ八間…両宮ノ前ニ有リ
と記述されている。
大聖寺文書(冒頭の部分)
神宮寺は別当寺、神供寺、宮寺などとも呼ばれていた。
瀬戸内市重要文化財に指定されている美和神社所有の文字瓦には、
天正十三年閏七月拾三日 八幡まいとの(舞殿)コリウ(建立)ツ加満ツリ(仕り)候 すへ(須恵)畑寺 空賢敬白 西蔵坊行海
とへら書きされている。
「すへ畑寺」は須恵畑寺で大聖寺のこと、八幡とは広高八幡宮のことである。
条里制水田などで富を蓄えた秦氏は氏寺大聖寺を建立し、さらに氏神広高八幡宮を建立した。隆盛を極めた秦氏の一族は、天正一三年には広高八幡宮に舞殿を建立し華やかな祭を展開していた。
大般若波羅密多経
写真は大般若波羅密多経を収めた箱と、収められていた十数巻中の一巻で奥書の箇所である。これらは美和神社に保管されている。
この箱は万治二年(一六五九)に東須恵村が施主になって作られたもので、同経を収めた箱である。
また箱書きの「八月放生会(ほうじようえ)」は、納められた経は八月に行われる放生会に関係するものである。堂寺弥七良の署名があるが、堂寺弥七良は大聖寺の社僧(宮僧、神僧ともいう)である。
奥書(写真参照)を見ると、同巻の施主は東須恵村小左右衛門(夫妻)で、寛文三年八月上旬に大聖寺の僧良識が書写したことが分かる。八月上旬に書写されたのは八月一五日に執り行われる放生会に奉納したものと考えられる。
放生会の放生とは、捕らえた虫、魚、動物などの生き物を解き放って自由にすることで、殺生や肉食を戒め、慈悲を実践する意である。その法会を放生会と云う。
石清水八幡宮で八月一五日に行われた放生会は特に有名とされているが、八幡宮では重要な法会として広く行われていたようだ。
因みに堂寺弥七良の居住地と思われる所に「堂寺」の地名があり、墓も現存し子孫の方が祭っている。
土器の欠片
写真の土器の欠片は美和神社境内(元広高八幡宮の社地)周辺にある瓦などの捨て場で発見されたものである。
大きさはおおよそ縦横六センチ位で、厚みは約一センチから一、二センチ位である。 内側が丸みを帯びており、表側の上部が外へ反っているので、丸い器であろうと思われる。
刻字は「祐澄」と「南無阿弥陀仏」であるが「仏」の部分が欠けている。祐澄は大聖寺の僧であろう。
刻字されている位置が土器の肩の辺りと思われることから、土器の肩の周囲に彫り込まれていたことが想像される。
しかし隆盛を極めた神宮寺の大聖寺は寛文六年に廃寺になり、栄枯盛衰の流れはいかんともし難い思いがする。