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[瀬戸内市の地名と人々の営み]1.7.邑久町山田庄・山手と秦氏

邑久町山田庄・山手と秦氏


山田庄・山手の半田

 山田庄の貴船山の東に半田・半田上があり、山手に半田の地名がある。半田は先に書いたようにハタ(秦)が訛ったもので秦氏の居住地である。
 山手の半田に接して伊庭木(いばき)という地名がある。県内には鐘鋳場(かねいば)という地名が点々とあるが、伊庭木の伊庭は鋳場の宛字と思われる。半田という秦氏の居住地に接していることから、農具や土地造成に必要な工具などを作っていた鉄工所と推測される。


半田廃寺

半田廃寺寺域推定図(邑久町史より転載)

半田廃寺寺域推定図(邑久町史より転載)

 半田廃寺について『邑久町史』から引用する。

千町平野の北東部には、標高一三五㍍の高砂山丘陵とその西に標高八一㍍の小丘陵が連なっている。小丘陵の南部は南北に長い尾根筋となり、南端の頂部には貴船神社が祀られている。貴船山と呼ばれるこの南部尾根筋の東側斜面裾に半田廃寺は位置している。
(中略)
半田廃寺周辺からは多くの瓦片が採集されているが、『邑久町遺跡地図』作成のための分布調査では、土師器・須恵器にほかに中世の土器片も採集されている。
(中略)
半田廃寺が建立された時期については、千町平野における条里制の施行時期の問題ともからみ注目される。
(中略)
(採集した瓦から)建立は八世紀後半から九世紀初頭にかけてが造寺の最盛期とみられ、このころに最終的に伽藍が完成したものと考える。

山田庄半田集落(邑久町史より転載)

山田庄半田集落(邑久町史より転載) 

半田廃寺跡から出土した瓦片

半田廃寺跡から出土した瓦片

 先に「長船町磯上と秦氏」の項で湯次神社の祭神は「弓月神」の意とし、「長船町東須恵と秦氏」の項で畑山大聖寺は山号の畑(秦)山から秦氏の氏寺と推測した。
 山手・山田庄沖に広がる条里制水田は多くの富をもたらしたと想像できる。彼らはその富で氏寺である半田廃寺を建立したと考えて不都合はない。


条里制水田

山田庄・山手沖の条里制水田

山田庄・山手沖の条里制水田

 山田庄・山手沖に広がる条里制水田は南は県道瀬西大寺線に接し、図のように坪地名が殆ど命名されている(この図は『邑久町史』「地区誌編」付録の字界図を参照した)。
 又図には記載していないが、この条里制に接した南側に同じく条里制水田が完全な姿で広がっている。
 山手の真徳沖に広がる条里制と思われる水田は変形された区画で、一の坪から二四の坪まで存在する。二五の坪から三六の坪はない。
 本庄土佐には一の坪・二の坪・三の坪・四の坪・五の坪・八の坪・三十六の地名があるが条里制の完全な復元は困難である。


邑久町北池

 北池について『邑久町史』「地区誌編」の記事を引用する。

北池堤防跡
 貴船山の北側から上笠加、下笠加、北池の堺となっている貴船山の南の間に造られた堤防で、現在、幅一五メートル、長さ二四〇メートルを測る堤防跡が確認できます。
 いつのころか、この堤防が造られ、北池は、下笠加、山田庄、山手の広大な用水溜池となっていたといわれています。
 「北池」の地名も、恐らく山田庄方面の農民が、北にある池という意味から名づけ、そのまま独立した村の名称にに使ったといわれています。(後略)

 下笠加の水田と山田庄・山手沖の広大な条里制水田を灌漑するため、溜池を山の北側に造り用水路を造った。造ったのは半田に住居している秦氏であることは間違いなかろう。度々書いているように秦氏は農耕、農業土木に長けた集団である。溜池を北池と命名したのは彼らであろう。彼らは伊庭木(鋳場)で農具や築堤に必要な工具を作ったと考えられる。
 溜池である北池について考えて見たい。堤防は幅十五メートル、長さ二四〇メートルと伝えている。幅一五メートルだから高さはそれ以下であろう。そうすると浅くて広い溜池であったと推測される。
 先に山田庄・山手から南へ条里制水田が二面あることを紹介したが、北池が二面(七二町)を灌漑する水量があったのか疑問である。南の一面は千町川から灌漑が可能なことから二面が同時期に造られて可能性は低いであろう。
 半田廃寺の建立が八世紀後半から九世紀初頭と推測されていることから、条里制水田の造成はそれ以前であろう。半田廃寺は水田から得られた富で建立されたと推測される。


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