[瀬戸内市の地名と人々の営み]10.2.須恵廃寺の瓦
須恵廃寺の瓦
須恵廃寺について『長船町史』は次のように書いている。
(須恵廃寺の)造営状況は、まず七世紀中葉の古新羅系軒丸瓦により小さな堂が建てられたようである。その後七世紀後半から八世紀前半にかけて、本格的な伽藍整備がなされたようである。そのときにはやや不確実ながら飛鳥の川原寺式軒丸瓦、平城宮六六六三型式系軒丸瓦などが使用されており、中央とのパイプを使って伽藍の整備がなされたようである。
この寺は備前東部地域で最古で、備前全体でも備前の大豪族である上道氏が建てた賞田廃寺とほぼ同時期の七世紀中葉という古い段階で建てられたこと、その所在する場所から須恵器生産を背景とする須恵郷の豪族が造営し、この地域の人々の精神的な支柱になっていたであろうこと、創建時には他地域にみられない古新羅系の瓦を独自に受け入れ、使用していること、つまり独自のパイプを持っていた可能性があること、そして7世紀後半~八世紀前半には川原寺式や平城宮式の中央と結びついた瓦を使用していることなどの特徴をあげることができる。
としている。
この記述で須恵廃寺は「須恵器生産を背景とする須恵郷の豪族が造営」し、その豪族は新羅と「独自のパイプを持っていた可能性」があり、造営当初は「古新羅系軒丸瓦」で葺かれていたことが分かる(図を参照)。
単弁七葉蓮華文軒丸瓦(須恵廃寺跡より出土)
古新羅系軒丸瓦は新羅から輸入したのではなく、新羅と独自のパイプをもっていた豪族が陶工を呼び寄せ、西谷地区で製作したものと考えるのが順当である。