[瀬戸内市の地名と人々の営み]10.3.熊城
熊城
マクキは熊来・熊城・熊木などと表記され、それらは同じ意であることは冒頭に書いた。当地の熊城には資料がないので、能登国能登郡熊来郷を参考にする。
吉田東伍著『大日本地名辞書』に「熊甲宮(くまかぶとぐう)について次の記述がある。
神祇志料云、延喜式、羽咋郡久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社、今鹿島郡熊木庄宮前村に在り、熊甲宮と云ひ、一郷の総社とす。按に此地は熊木郷なれば(中略)熊甲宮は任那彦兜彦荒石彦等の諸社と同く、韓人の祖廟なりき(以下省略)。
としている。
また『万葉集』巻一六に収録された「能登国歌三首」の内の一首に
はしたての熊来のやらに新羅斧落とし入れわしあげてな泣かしそね浮き出いづるやと見むわし
と歌われている。
これらの資料から、熊来郷は新羅から渡来した人々が住んでいた郷であると推定できる。
そうすると熊は高麗(こま)からクマに転訛したものであろう。高麗は直接的には高句麗を指すが、朝鮮半島全体を指すことが多い。
以上のことからクマキは朝鮮半島から渡来した人々の住居地に命名された地名と考えるのが妥当である。
当地の熊城は熊来郷と同じで、新羅から渡来した人たちの住居地と考えて間違いないであろう。先に書いた「新羅と独自のパイプをもっていた豪族」が呼び寄せた陶工たちの住居地で、この陶工たちが須恵器や須恵廃寺の「古新羅系軒丸瓦」等を作ったのに相違なかろう。