地名をキーワードにして地域の歴史を掘り起こすページです

[瀬戸内市の地名と人々の営み]11.3.鍛冶屋千軒

鍛冶屋千軒

 以上福山について見てきたが吉井川沿いにある福永、福元、福中には鉄に関係する地名はなく遺物の出土も聞いたことはない。このことをどのように考えたらよいのか検討してみたい。試案として長船鍛冶の俗謡「鍛冶屋千軒」を取り上げる。
 
  鍛冶屋千軒 打つ槌音に 西の大名が駕籠止める
 
 と歌われている。千軒とは数が多いという意味であろう。西の大名が駕籠を止めるとは江戸時代の参勤交代の時を思わせる。
 しかし長船鍛冶は天正一八年(一五九〇)の大洪水で壊滅的な打撃を受け、江戸時代は千軒と表現できる状態ではない。この俗謡は隆盛を極めた時代を誇りに思って作られ、箔をつけるために大名を歌い込んだのであろう。
 長船鍛冶は鍛刀の数においても質においても群を抜いて他国の産地に勝り、刀剣王国を形成していたことは周知の通りである。隆盛を極めた時代は千軒と表現してもおかしくないほど鍛冶屋が軒を並べていたのに相違なかろう。
 特に応仁の乱(一四六七)以降戦国大名が割拠した時代から安土桃山時代にいたる約一三〇年間の刀剣の生産は計り知れないほどの数である。
 さらに日本刀の遣明船貿易(一四三二~一五三九)の輸出数は二〇万本前後になるのではないかといわれている(田中健夫『倭寇と勘合貿易』を参照)。更に私貿易を含めるとその数ははかり知れないといわれている。
 戦国時代の鍛刀地は武蔵国から薩摩国まで一七カ国に及んでいる。その中で備前国長船の生産数は群を抜いていたことは論を待たない。遣明船貿易でも数打物として大量生産されたであろう。
 戦国時代の国内需要と遣明船貿易の輸出を考えると、長船の地のみの鍛冶場で賄うことはできない。当然鍛冶場を広げたのに相違ない。
 長船の上手の吉井川左岸は山が迫り鍛刀地の適地は乏しい地形である。長船の下手の左岸は平野が広がり何処でも鍛冶場を作ることができる。しかも鍛冶の鉄や炭を搬入する舟も容易に接岸できる。
 先に吉井川下流域の福山の図を掲載しましたが、鍛冶地名があるのは福山の「鍛冶下」のみである。しかし密集する福地名の地で長船鍛冶が行われたと推測しても、あながち不当ではなかろう。


powered by Quick Homepage Maker 4.71
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional