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[瀬戸内市の地名と人々の営み]12.難解な地名「長船」

第十二章 難解な地名「長船」

 備前長船といえば刀剣の名産地とイメージできるほど有名である。では「長船」とはどのような意で命名されたのだろうか。
 『和名抄』に記載されている長船一帯の郷名は靫負郷(ゆげいごう)で長船の地名は出てこない。鎌倉時代の刀工長光が作った薙刀の銘に「備前国長船住人長光造」とあるからその頃には長船の地名は生まれていた。
 長船の北に船山という小山があるが関連があるのだろうか。船山には五世紀末から六世紀始めころ墳長約六〇㍍の前方後円墳が築かれている。先に「長船町長船のサナ」の項に文明年間の絵地図を掲載しているが、この古墳を国造墳(くにのみやつこふん)としている。真偽のほどは定かでないが文明のころには国造墳と認識されていたことは間違いないであろう。
 国造とは古代,大和の王権に服属した地方首長の身分の称で、のちに郡司となりその多くは世襲制と言われている。大伯の国造は後の邑久郡郡司である。国造は吉備海部直と推定されている(邑久郡の郡領になった海部氏の項参照)。
 この時期牛窓では海部の首長墓と考えられている鹿歩山古墳が築かれている(牛窓の前方後円墳の項参照)。また船山古墳とほぼ同時期に牛文茶臼山古墳が築かれ被葬者は海部一族と考えられている(海部氏と牛文茶臼山古墳の項参照)。
 船山古墳が築かれたころには海部氏は邑久郡の内陸部に進出していたことが分かる。船山の船は海部氏一族の船と関連があるのだろうか。もしそれが考えられるとすれば長船を考えるで参考になるのだがあくまで想像の域をでない。長船は難解な地名である。


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