地名をキーワードにして地域の歴史を掘り起こすページです

[瀬戸内市の地名と人々の営み]13.1.地名の誕生

第十三章 地名随想

 地名を調べている内に気がついたことや、私なりに理解したことなどあれこれと書いてみたい。


地名の誕生

 美和神社を祀る広高山(一六六㍍)の山頂付近から、サヌカイト製のナイフ形石器や尖頭器(先端がとがった旧石器時代の打製石器)などが発見された。またかつて海の中の小島であった東須恵島地区から石鏃が大量に発見された。山頂は住居兼獲物の見張りの場で、島地区は鳥などの狩猟場であったのだろう。
 旧石器時代がどのような暮らしなのか分からないが、家族単位で大きなエリアを持って食料を確保していたと想像される。家族で狩猟に行く時に○○山などの地名が必要なことは当然である。
 三内丸山遺跡は約五五〇〇年前から四〇〇〇年前の縄文時代の集落跡で、一五〇〇年の長期に渡り定住生活が営まれていた。遺跡からヒョウタン、ゴボウ、マメやクリの栽培が明らかになっている。
 居住者は数百人といわれている。当然言語がないと共同生活は成り立たない。みんなで獲物を捕りに行く時など○○山へ行くのか△△谷か、或いは××川へ行くのか、その場所をみんなが認識することによって行動することができる。
 認識するには目的の場所の地名が不可欠である。縄文語で意思疎通していたことは間違いなかろう。三内丸山は大集落であるから行動範囲も広く、従って多くの地名が誕生していたと推測される。


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