[瀬戸内市の地名と人々の営み]13.2.地名と宛字
地名と宛字
日本人が最初に漢語に接したとき、どのような対応だったのか興味をそそられる。当時の日本人が話していた言葉は縄文時代に起源を持つ大和言葉であろう。口承だけで何不自由なく暮らしていたのであるから戸惑ったのに相違ない。
日本は外来の文化を柔軟に受け入れる国であるから、真剣に学び受け入れ方について取り組んだであろうと想像される。
『日本書紀』の応神天皇一六年二月に、王仁を招聘し皇太子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の先生にして諸典籍を習ったとしている。
典籍は当然漢語で、豪族達も懸命に学んだのであろうが、漢語を我が国に受け入れることをしなかった。代わりに漢語の音を借りて大和言葉を表記することにした。例えば「くにのまほろば」は「久爾能麻本呂婆」と宛字で表記した。大和言葉は日本語の母体となり更に仮名文字を生み日本文化の精髄になった。
地名にもこれに似たものがある。「オドロ」は藤葛が群生している所をいう方言であるが、地名に「於土路」と表記されたものが井原市東江原にある。
「ショウブ」は鉄の意であるソブが転訛したものであるが、地名には「菖蒲」または「勝負」と表記した。砂鉄産地にたいへん多い地名である。このように音に見合う漢字を当てた。
もう少し例を挙げると、
轆轤→六郎
垣ノ段→柿ノ段(垣内の意である垣を柿に宛字)
秦→幡・畑・畠(秦氏の居住地)
鋳物師(いもじ)→芋ヶ迫・芋谷など(いもじのじが省略され芋に宛字)
埋田→梅田
など枚挙に暇がない。このような地名は漢字の意味に固執しているととんでもない解釈になってしまう。