[瀬戸内市の地名と人々の営み]2.1.長船町牛文の喜右衛門屋敷
第二章 瀬戸内市の産鉄
かつて岡山県は全国有数の産鉄地であった。産鉄といえば県北が大産地であるが産鉄地は全県に広がっている。
瀬戸内市の産地は長船町牛文・飯井・東須恵、長船町長船、邑久町本庄、邑久町虫明の四地区である。
長船町牛文の喜右衛門屋敷
多聞寺地区の関係地名
多聞寺
瀬戸内市長船町牛文に多聞寺という集落がある。建立された多聞寺が集落名になった。
多聞寺地区は丘陵の裾にある集落であるが、集落の最上段に「多聞寺」の地名がある。更に北側の斜面には「多聞寺下」の地名がある(図を参照)。「多聞寺」には石垣がかなり残っており当時の面影を僅かに留めている。
た。
多聞寺集落
(左上の藪の中に多聞寺跡の石垣と喜右衛門屋敷跡の石垣がある)
喜右衛門屋敷跡の石垣
喜右衛門屋敷
喜右衛門屋敷は地図でお分かりのように多聞寺の下にある。現状は藪であるが多聞寺と同様に石垣が残っている。
喜右衛門屋敷の下手に土井下という地名がある。土井は土居とも書かれ豪族屋敷にめぐらした土塁のことである。このことから喜右衛門は集落を支配していた豪族であったと推測できる。
屋敷が多聞寺のすぐ下にあることから考えると、多聞寺は喜右衛門一族の氏寺として建立されたものであろう。
喜右衛門屋敷火防神社
多聞寺集落の隣に稲荷山という集落がある。ここに祭られている稲荷神社の境外末社に「喜右衛門屋敷火防神社」がある。火防はヒブセと読むのだろうか。祭神は「比左子神」となっている(『邑久郡史』)。
「火防」は「防火」と同じ意であろうから、喜右衛門屋敷に祭られた火の用心の神社と考えられる。しかし喜右衛門が住んでいた建物の防火の神であれば、建物の消滅とともに役割は終わるから、後々まで火の用心の神のみが祭られることは無いはずである。
この神は喜右衛門の屋敷神ではなく、喜右衛門と共に集落民がある目的で祭った神であるのに相違ない。であるから喜右衛門の家屋が消滅しても集落民が祭り、稲荷神社の境外末社として現在に至っているのだと思う。
祭神の比左子神はどのような神なのかはっきりしない。他の神社で祭られている例も見あたらない。比左子はヒサゴと読むとすれば同じような言葉に「塞ぐ」があり、フサグ又はヒサグと読む。防ぐという意味がある。
この意を比左子神に当てると「塞神」になり、喜右衛門屋敷火防神社の「火防」に当てはまる。これはあくまで推測であるが、無理なこじつけではないと思う。
以上喜右衛門屋敷火防神社について述べたが、この神社から豪族喜右衛門と配下の一族は火を扱う集団であったと考えられる。このことは多聞寺集落の成り立ちを考える上で重要である。
柿段
地元ではカキノダンと呼称している。地図で分かるように多門寺地区で最も広い面積を占めている。「段」は段々の段で、現状も段の状況を保っている。
柿段では果物の柿を栽培していたのだろうか。冒頭に地名は「営みに必要なもの」に命名されると書いたが、柿は生活の必需品とは言い難く地名になることはまずあり得ない。
県内の小字地名を調べてみると柿地名はたいへん多い。その中から一部を掲載すると、
柿ノ木谷(新見市大佐大井野)
柿木(新見市正田)
柿ノ木(高梁市川上町高山市、笠岡市走出、真庭市草加部)
柿木ノ坪(井原市野上)
柿ノ木田(真庭市西茅部、美作市宮本)
柿ノ木ノダン(岡山市北区建部町角石畝)
柿木峠(真庭市阿口)
柿之町(岡山市北区御津北野)
柿木下(岡山市北区真星)
柿ノ内(鏡野町寺和田)
柿ノ木町(赤磐市仁堀東)
柿ノ木坂(備前市吉永町多麻)。
などがある。
「柿ノ木」など木が付いている地名が多いが接尾語で木の意味はない。前記をはじめ県内の柿地名の周辺には産鉄関係の地名が密集している地域が多い。このことは柿地名を考える上で重要である。
垣内という言葉がある。カキウチまたはカイトと読む。垣内は平安時代に和歌に詠まれているので古い言葉である。
垣内は垣根の内という意で屋敷のことだが、後に小集落の意になった。柿は垣内の垣の当字で、柿段は小集落の跡であると私は考えている。上記の「柿之町」(岡山市北区御津北野)や「柿ノ内」(鏡野町寺和田)はその適例と言える。
更に柿地名がほとんど産鉄地周辺にあることから、金子、梨子(穴師のアが脱落し梨に当字されたもの)と同義で産鉄従業員住宅地区であったと推測できる。
例えば岡山市北区建部町鶴田にある「カキノコサカ」は漢字に直せば「垣ノ子坂」であろう。子は人の意で垣ノ子は金子、梨子とほぼ同義でろう。「柿段」は元々「垣ノ子段」の意で子が省略されたものと推測できる。多聞寺の柿段は産鉄従業員が住んでいた集落跡であると考えてほぼ間違いない。
産鉄関係の地名
この図は多聞寺周辺の産鉄関係の地名地図である。以下各地名の解説する。
鍋蓋
鍋蓋といえば台所用品の鍋の蓋が連想されるが関係はない。鍋地名に千種鉄で有名な兵庫県宍粟市千種町の岩鍋がある。岩鍋は鈩が盛んに行われていた所である。
古代人は鉄のことを岩のように固いと考えたようで、岩鍋は鈩の意と推測できる。鍋蓋の鍋も鈩の意と思われる。
蓋について参考になるのが美作市川上の藤蓋である。蓋は砂鉄を選別するため藤で編んだ筵を川底に敷いた状態を意味していると思われる。筵は篩の役目で礫などを分別し底に砂鉄が溜まる仕組みで、かんな流しに必要な道具である。従って地名の鍋蓋は砂鉄を採取したところの意であろう。藤蓋と鍋蓋は同じ意と考えらる。
鍋蓋の位置は盆地内で最も低い場所で、備前市佐山、瀬戸内市飯井・東須恵の山から流れでる雨水がすべて集まる場所である。当然風化して流れでた砂鉄も集まる。鍋蓋は牛文にもある(図を参照)。
足ヶ坪
足ヶ坪は鍋蓋の上手にある。足は芦の当字で、芦の根には鉄バクテリアの作用で鉄分が付着することから産鉄地名になっている。足ヶ坪は鍋蓋がかんな流しで砂鉄を採取した場所であることを裏付けている。
芦地名では兵庫県芦屋市、福岡市芦屋などがあり産鉄地名と言われている。
知原
知原は足ヶ坪の上手にある。知は茅(ち)の当字で、チガヤのことで菅(すげ)などの仲間である。知原という地名は県内には外に見あたらないが、菅地名は産鉄地に大変多い。
真庭市鍛冶屋の菅ヶ谷、総社市延原の南菅・北菅など枚挙にいとまがない。当地の知原は鍋蓋や足ヶ坪の上手にあることから、芦や菅と同じように産鉄に因んだ地名と考えられる。
勝負谷
鉄の意であるソブがソウブになり、更にショウブに転訛して勝負と当字されたものであろう。県内には菖蒲と当字されたものが最も多く、次いで勝負地名が各地にある。
「菖蒲ヶ谷」新見市大佐大井野。
「ショウブ坪」高梁市川上町仁賀。
「菖蒲ヶ迫」井原市美星町明治。
「勝負砂」総社市久代。
「勝負峪」真庭市目木。
「菖蒲谷」備前市閑谷。
などがある。勝負・菖蒲は産鉄地名である。
寒風
瀬戸内市牛窓町内にある寒風は有名である。サムカゼと発音している。寒は寒川(さむかわ)などの地名になって全国に点在する産鉄地名である。寒風のサムは鉄を意味するサナ・サヒ・サビと同類であろう。
金ヶ平
金(かね)は金・銀・鉄・銅などの金属の総称であるが、この地名の金は鉄(砂鉄)のことである。
大笹
笹地名は各地にあるが、植物の笹は人々の営みで地名になるほど必要なものではない。
ササは笹・佐々・佐作・楽々(ささ)などと当字されて地名になった。伯耆地方で祭られている楽々福(ささふく)神社は製鉄神として尊崇されていた。楽々は砂鉄の意、福は鈩を吹く意であろう。笹は砂砂で砂鉄の意と考えられる。
カジヤ林
カジヤ林は東斜面に、ノベ山は西斜面にある(図を参照)。その頂上に現在は祇園社と龍王宮を祭っている。
カジヤ林のハヤシは古い語で『和名抄』には伊予国越智郡に拝志(はやし)郷、讃岐国山田郡に 拝師(はやし)郷などがある。
はやしについて『出雲風土記』秋鹿郡の項で「足高野山」の解説に、
…上頭(みね)に樹林(はやし)あり。此は即ち神の社(もり)なり
とあり、はやしは古代から神が籠もる杜の意とされていた。カジヤ林は鍛冶屋神を祭った杜の意であろう。
ノベ山
ノベ山のノベはなべ(鍋)が訛ったものと思う。その好例に千種鉄で有名な兵庫県宍粟市千種町に、鉄の大産地である「岩鍋」があることは先に書いた。
現在は岩野辺(いわのべ)になっている。なべがのべに訛ったのである。この一例から当地のノベ山は鍋山が訛ったものと推測するのは危険であるが、蓋然性は高いと思う。
なべは前記の鍋蓋の鍋と同じで鈩のことと思われることから、ノベ山は製鉄神を祭った山の意と考えられる。
藤地名
産鉄地の周辺には必ずと言っていいほど「藤」地名がある。藤の蔓で編んだ筵はかんな流しの必需品であることは先に書いた。
図のように長船町牛文に藤木、と長船町東須恵にオドロヘがある。オドロは県北の方言で藤などの群生地を意味する地名である。オドロヘのへは場所の意である。これらの場所に生えている藤で「鍋蓋」で使用した莚を編んだものと思われる。
新見市赤馬の「金藤」(金は砂鉄の意)
総社市山田の「藤砂」(砂は砂鉄の意)
などは、砂鉄採取の藤莚の意をよく表している。
余談であるが県北の地名であるオドロがなぜ県南の当地にあるのか考えて見たい。
冒頭に地名は生活共同体の全員が認知して地名になると書いた。県南の人が県北に出かけてオドロを見聞した位で県南の藤地名がオドロ地名に変更することはあり得ない。オドロと命名した県北人が集団で当地へ移住したと考えるのが順当であろう。その集団はオドロを必要とする集団であるから、たたらに従事する集団であろう。
鉱滓
多聞寺地区で出土した鉱滓
多聞寺集落の南西の方向に十二ヶ谷池という池がある。その上手で鉱滓が発見された(図に炉壁出土地となっている箇所である)。鉱滓は金属を精錬する際にできるいわゆる金屎(かなくそ)である。この付近に鈩があったと考えてほぼ間違いなかろう。
先に喜右衛門屋敷に祭られていたのは防火の神と推測したが、タタラの守護神として祭ったのであろう。
本項をまとめてみると、喜右衛門はたたら集団を支配した豪族であった。その集団は柿段を住居にした。オドロヘの地名から集団は製鉄の先進地である県北から移住してきた可能性もあるだろう。
原料の砂鉄が確保出来たことは周辺の産鉄地名から伺える。鉄滓が出土したことでたたらの操業がほぼ確定した。製鉄で富を蓄えた喜右衛門は屋敷の上手に多聞寺を建立し氏寺とした。
多聞寺周辺を振り返って見ると牛文地区には牛文茶臼山古墳があり、多聞寺のすぐ南の東須恵地区には山崎古墳群がある。更に東隣の飯井地区には南浦・向山古墳群がある。また飯井地区には荒池を造り条里制の水田を造成している。後の時代に畑山大聖寺が建立された。
このような大きな営みが古代から続き、人口も増え豊かな暮らしであったと推測出来る。従って鉄の需要は大きく、喜右衛門はある時代にその鉄を供給したのであろう。
これを立証するものは地名と遺物・遺構である。冒頭に書いたがその地名が必要であった理由を理解すれば、地域の営みをかいま見ることができる。