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[瀬戸内市の地名と人々の営み]2.2.長船町長船のサナ

長船町長船のサナ

 長船町長船は『和名抄』に靭負郷(ゆきえごう)と記載されている地域で、備前刀の大産地で多くの名工を輩出した所である。


文明年間の絵地図

現在の関係地名・文明年間の絵地図(写本)

 文明年間は応仁の後の一四六九年から一四八六年までの期間である。この時代の天皇は後土御門天皇で、室町幕府将軍は足利義政、足利義尚である。
 絵地図は長船のO氏宅に保存されていたものを模写したものである。記載されている地名は殆ど現在の地名と合致することから(地図参照)、信憑性は極めて高いと考えている。但し絵地図のカヤムラが現在の地名にはない。網の目のような箇所は当時の川筋である。


サナ

 サナは古老の話によると長船で最も低い土地である。ここはかって吉井川が分流していたころ、その支流の一つと備前市伊部・香登方面から流れている香登川が合流していた付近である。
 合流した付近は川砂鉄が最も溜まりやすい所で、何千年の間に相当な量の砂鉄が溜まったものと考えられる(前項の「鍋蓋」参照)。
 文明年間の絵地図に大森池と記載されている箇所がサナ付近で、採取した後が窪地になり湛水したと推測できる。明治になってもその一部が手洗池として残っていたという伝承がある。現在は住宅地になり当時の面影はない。
 前掲の「現在の関係地名図」に砂鉄採取に必要な藤ノ木があるが、前項で説明している。
 岡山県内には
  備前市蕃山に「佐奈高下」
  真庭市(旧八束村)に「サナ」
  真庭市(旧中和村)に「サナノサコ」
 がある。又サナと同類と思われるものにサムがあり岡山市北区建部町に寒砂(さむすな)がある。


福井

 長船の北に隣接する備前市坂根にある大きな地名である(地図参照)。
 最近山麓の水田からカナクソが採取された。耕作者の話によるとトラクターで耕耘すると田の一箇所で石を削るようなガリガリした所があるという。
 カナクソを採取したのはその付近であるが、未調査なのでたたらの跡かカナクソの捨て場なのか分からない。しかしたたら製鉄が行われていたであろうという推測は充分にできる。

出土したカナクソ

出土したカナクソ

 福井の福は「吹く」で鉄を吹く意であろう。鉄を吹くとは炉へ送風することでであるが製鉄全体の意になった。従って福井は産鉄地を意味する地名であろう。


製鉄神大森大明神

 大森大明神について『邑久郡史』下巻に次の記述がある。

当社(靭負神社)は往古同村大森と云う地に鎮座ありしを、寛文九年 (一六六九)二月現今の地に移転し奉れり。尚旧蹟には手洗池あり、明治迄も残れり、又壱町以内の地に字的場あり、此処は五月五日祭礼の節、氏子等靭を負い菖蒲の鬘にて的を射る跡なりと伝う

 としている(絵地図参照)。
 この伝承の「大森と云う地」と「手洗池」は文明年間の絵地図の「大森池」と対応するので信憑性の高い伝承といえる。
 靭負(ゆきえ)神社は備前国式内外古社で正五位下靭負明神と記載されている。絵地図には「大明神」のみ記載されているが、『備前国々中神社記』〈延宝三年(一六七五)〉に

長船村 大森大明神 神主同村高原和泉 旧記・来歴無御座候、以上

 とあり、大森の地に祭られた社は大森大明神であることが分かる。
 祭日には大森の傍らの的場で弓を射る神事が行われ、盛大な祭の様子が窺える。大森池は地名「大森」の西側にあることから、サナの地であることは先に書いた。サナは長船地区で一番低い土地という古老の話とも一致する。伝承に「手洗池あり」というのはこの大森池の名残と考えらる。


大森大明神の祭神

 大森大明神の祭神は旧記・来歴がないので不明であるが推測してみたい。吉田東悟著『大日本地名辞書』の佐那(さな)の記述が参考になるので掲載する。

(前略)神都志云、佐那村は上古には佐那県と称しき、曙立王の子孫、佐那造の居住せし旧蹟なり。其名古事記に見えたり、今多気郡に属す、其佐那神社、土俗大森社といふ(後略)

 としている。佐那村は現在の三重県多気郡多気町である。
 曙立王(あけたつのみこと)に関する『古事記』の記述は「此の曙立王は伊勢の品遅部君、伊勢の佐那の造の祖なり」としている。 谷川健一著『青銅の神の足跡』には「明立天之御影命=天目一箇命(あめのまひとつこのみこと)のゆえに天目一箇命を祖神として奉斎する人々の群れ」であったとしている。
 以上のことから佐那神社は天目一箇命を祭神とした神社であることが分かる。天目一箇命は製鉄神である。
 佐那神社という社名は佐那県(さなのあがた)という地名に由来して命名されたと考えられる。その佐那神社を祭った人々は佐那神社とは言わないで大森社と称したとしている。これは当地の地名サナと大森大明神の関係と極めて類似している。
 以上のことから推測すると、当地の靭負神社(大森大明神)は製鉄神天目一箇命を祭神にした神社であると考えられる。


天目一箇命

 天目一箇命は『日本書紀』、『播磨国風土記』、『古語拾遺』に登場する片目の神である。鉄を作る際、村下(むらげ)(たたらの工場長)が炉の中の強い光を片目で見て融解の状況を判断するため、目を痛めて片目を失明するという職業病に由来しているとされている。古代人は村下は鉄を作る超人的な力を持っていると考え、神格化されたのであろう。
 靭負神社は広い松林の中にあり刀剣の森として大切にされている。同社が刀鍛冶の守護神として厚く尊崇されたのは製鉄神である天目一箇命が祭られているためであろう。

靭負神社

靭負神社


製鉄民

侏儒秦大兄
 長船(靭負郷)の東隣は備前市香登(香登郷)で邑久郡に属していた。
 香登郷に関する貴重な文書がある。
 『続日本紀』巻一の文武二(六九八)年四月三日条に、

夏四月壬辰。(中略)侏儒備前国人秦大兄。賜姓香登臣

 とあるのがそれである。
 侏儒(しゆじゆ)である秦氏の大兄は備前国香登の住民で、ある功績により香登臣という姓(かばね)を賜ったという内容である。どのような功績か分からないが、秦大兄は侏儒と云われていたことが注目される。侏儒は背丈の低い人のことである。
 『神武紀』に、

高尾張邑(中略)赤銅(あかがね)の八十梟帥(やそたける)有り。此の類(ともがら)皆天皇と距(ふせ)き戦はむとす

 また

高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の為人(ひととなり)、身(むくろ)短くして手
足長し。侏儒(ひきひと)と相類(あいに)たり。皇軍(みいくさ)、葛の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑(むら)を号(なづ)けて葛城と曰ふ

 と記述されている。
 赤銅の八十梟帥と土蜘蛛は同一人物とされているので八十梟帥は製銅民の首長で侏儒であったことが分かる。
 製銅民・製鉄民は背の低い人が多いとされているが、穴の中で採鉱するのに背が低いと作業しやすいためであろうか。
 秦大兄が侏儒と云われたのは、背が低い人で製鉄民であったことを意味しているのであろう。秦氏は殖産氏族でかつ製鉄氏族である。彼らは農具や工具を作り、香登沖に条里制水田を造ったと考えて間違いなかろう。
 平城宮木簡に「香登郷御調□十口」という荷札がある。□には金偏が確認されているので、鍬か鉏(すき)と推測される(『長船町史』史料編)。この木簡は当郷が産鉄地であったことを示している。
 香登郷(備前市香登・福田・畠田・伊部・東片上・西片上が推定郷域)には多くの製鉄関係の地名が現存している。主なものを列記すると、福井・福田・金乢・金山畑・藤田・笹山・菖蒲ヶ本・蟹ヶ谷・芋谷・金藤などである。


畠田

 長船に隣接する畠田は、元亨元年(一三二一)の「備前刀匠熊野参詣人願文」に、刀匠守家の居住地に「はたけた」と記載されていることから古い地名であることが分かる。
 地名の由来を考えてみると、はた(秦)→はただ(畠田)→はたけだ(畠田)と推移したと思われる。
 香登郷は前記のように秦氏の居住地であったことは確実なので、この推測は蓋然性が高いと考えます。そうとすれば香登郷にもっとも相応しい地名といえるだろう。
 関連したものに半田という地名が各地にあるが、はた(秦)→はんだ(半田)と転訛したのと似ている。ちなみに「田」がつく地名には水田を意味する田の他に場所を意味する田がある。畠田の田は場所の意とすれば秦氏の居住地となる。


カヤムラ

 文明年間の絵地図に記載されている地名はほとんど現存すると先に書いたが、カヤムラのみ現在の地名にはない。しかし絵地図の信憑性が高いことから文明年間には存在したと考えて間違いなかろう。
 カヤムラはカヤという集落の意である。カヤは植物の茅(かや)ではなく、朝鮮半島の伽耶(かや)から渡来してきた氏族が住んでいた集落と推測できる。
 伽耶は古代朝鮮半島南部にあった小国家群の総称であるが、金官伽耶と大伽耶が有力な国であった。加羅、駕洛、韓とも表記されている。
 当地に住んでいた伽耶一族はどんな職業集団なのか分からないが、隣接している畠田が秦氏居住地と推測できることから、産鉄地である長船のカヤムラの住民も秦氏ではないかと想像できる。
 本項はサナをキーワードにして製鉄関係地名、製鉄神、製鉄民について推測した。


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