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[瀬戸内市の地名と人々の営み]3.邑久町庄田の白坂

第三章 邑久町庄田の白坂

白坂関係地名

白坂関係地名(『邑久町史』地区誌編字界図参照)

 白坂は図のように邑久町庄田と長船町東須恵に跨がる地名である。白坂の坂は坂道の意で今は通る人はいないが、昭和三十年頃までは尻海から天秤棒を担いだ魚の行商人が通っていた。
 この白坂の特徴は庄田側と東須恵側の両方に命名されていることである。これは白坂について双方に共通の意識があったためである。このような例は少ない。
 白坂の地名は庄田側が先ず命名した。図のように白坂口という地名があることから家で云えば玄関であるから表側である。東須恵の白坂は庄田側の白坂に追従したものであろう。
 特に庄田側は図のように白坂口・白坂・白坂奥・白坂辻と白坂地名が続いているのは特殊である。如何にこの坂が重要視されていたかが分かる。
 明治二十二年の町村合併以前は庄田村と東須恵村であった。当時の暮らしは自給自足で村外に出ることは稀で、隣村は外国のようなものであった。村境に「出口」という地名が点々とあるが、村から出ることが特別なことであったことを示している。
 況して庄田村と東須恵村は山の尾根が堺なので尚更遠い外国であったのに相違ない。その両村が白坂という共通の意識を持っていたのは特別な理由があるはずである。


美和神社の祭典行事

 美和神社の祭典で豊作を祈念する春祭と豊作を感謝する秋祭は大きな行事であった。
 祭典に先立ち神を迎える行事が執り行われる。場所は尻海の才崎(元神坂(みわさか))の磐座である。迎えるに先立ち海に入り潮ゴリをとり、身を清めた上磐座で神を迎える神事を執り行う。
 その様子を江戸時代末ころの尻海の郷土史家中江理左衛門は次のように述べている。 

神職、氏子当番の族、尻見犀崎に来たりて浜辺にて潮をあび、藻を拾ふて潮を汲んで、彼の犀崎の岩窟へ白幣を建て祝言して帰るが例なり。

 文中の「犀崎の岩窟」とは才崎(元神坂(みわさか))の磐座のことである。神幸用の装束で正装した一行は神を捧持し庄田の白坂を登り東須恵本村集落内の神橋(みわはし)を渡って美和神社へ安置し、祭典が始まるのである。


神幸用の装束

残存している装束

残存している装束

 江戸時代この神幸に参加した時の装束が保存されている(写真参照)。襟などに参加した村が書かれている。残存しているのは庄田村・佐井田村・横尾村・上山田村・下山田村・尻海村・北池・山田庄・小津村・福谷村・福元村・大ヶ嶋・潤徳・豆田村・東須恵村である。これらの村々から参加した。


神橋

神橋(東須恵本村集落内)

神橋(東須恵本村集落内)

 東須恵本村集落の中を流れている道還川に架かかる橋で神橋(みわはし)という。この橋を尻海の磐座から出発した神幸行列が渡って美和神社へ到着した。


白坂

 先に白坂口に触れたが「口」がつく地名は大切なものあるいは重要なものに命名される。例えば美和神社の参道入り口付近に山口という地名がある。この山は大物主命を祀る三和の峰(現在は広高山)の意である。従ってこの山に参拝する道は大切なものと意識され山口と命名された。
 白坂は神が渡御される大切な道である故に白坂口と命名されたと思われる。白坂の白には清浄の意がある。


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