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[瀬戸内市の地名と人々の営み]5.1.牛窓の前方後円墳

第五章 牛窓

『備前国風土記逸文(ふどきいつぶん)』に

神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、出でてみ舟を覆さむとしき、住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて、投げ倒したまひき、故に其の処を名づけて牛轉(うしまろび)と曰ひき、今、牛窓と云うは訛れるなり。

 という有名な地名伝説である。
 本項は別の角度から牛窓という地名の経緯を考えてみたい。 


牛窓の前方後円墳

前方後円墳分布図

前方後円墳分布図

 まず牛窓町の古墳時代の様子を見ておきたい。『牛窓町史』から引用する。

 牛窓地区で確認されている最も古い古墳は牛窓関町にある牛窓天神山古墳である。
 発掘調査がなされておらず、細かな時期はわからないが、採取されている埴輪や古墳の形からおおよそ四世紀半ばから後半のものと考えられている(中略)。
 この牛窓天神山古墳はあとで述べる四基の前方後円墳と同様に海に面して築かれており、すでに古くから指摘されているように牛窓湾の海上交通を支配した人物の墓と考えられる。
(中略)
 牛窓天神山古墳の後継者の古墳は牛窓湾に浮かぶ黒島の頂上部に築かれた墳長約八一メートルの黒島一号墳である。採取された須恵器などから五世紀前半のやや半ばよりに築かれたと考えられる。
(中略)
 黒島一号墳の次ぎに築かれた首長墳は牛窓湾西寄りの墳長約八四メートルの鹿歩山(かぶやま)古墳である。この古墳はこれまでの古墳にはみられなかった周濠がある。築造時期ははっきりしないが、採取されている埴輪から五世紀後半と考えられている。黒島一号墳の次の後継者の墓として年代的には問題はない。
(中略)
 鹿歩山古墳の次ぎに築かれたものが波歌山(はかやま)古墳である。現在墳丘は削られてしまい、その跡が残るだけであるが、一応以前の調査で墳長約六〇㍍とされている。築造時期については採取されている須恵器や埴輪から五世紀中葉説と五世紀末~六世紀前半説があるが、採取されている古い須恵器が築造以前のものである可能性もあることから、ここでは波歌山古墳の時期は五世紀末~六世紀前半と考えて説明する(中略)。
 次ぎに築かれた前方後円墳は墳長五五メートルの二塚山(ふたつかやま)古墳である。採取されている須恵器や埴輪から六世紀後半に築かれたと考えられる。
(後略)

 このように牛窓地区で四世紀半ばから六世紀後半にかけた約二五〇年間に五基の前方後円墳が築かれた。
 この五基の古墳と吉備海部直(きびのあまべのあたえ)氏との関係について、吉田晶著『吉備古代史の展開』で次のように述べている。

 (前略)海部集団の本来的特徴は、その分布からも知られるように主として西日本地域での、船を利用する海上交通の専門集団(同時に水軍でもある)であることに求められる、とすべきであろう。このことが海部集団の他の部民にはみられない共同体的結合の強さと、その首長的氏族の支配的地位の安定性とをもたらしていると考える。
 記紀にあらわれる吉備海部直氏の人物は四名である。(その四名は吉備海部直赤尾、同難波、同羽島と黒媛であるが、本項と直接の関係はないので記述を省略する)
 吉備海部直氏の氏族としての動向をまとめると次の通りである。
 同氏は吉備東辺の邑久地域に本拠をもち、海上交通の専門集団であり同時に水軍でもあった海部を統轄する首長的氏族であった。吉備氏一族の盛時においては、そのもとに統属する中首長の一つであったが、その職能によって吉備氏一族に対して一定の相対的自立性をもっていたと推定しうる。
 吉備氏一族が王権との抗争によって敗北しはじめると、同氏は吉備氏一族の統属下から離れて王権との結合関係を深め、六世紀代において朝鮮との外交にかかわる官人的役割を担うようになってゆく。このような吉備海部直氏の動向のなかに、邑久地域の大化前代における歴史的特質が象徴されている、といえると思う。
 上記に関連してあらためて注目したいのは、吉備東辺の天然の良港である牛窓湾をつつみ込むかたちで、四世紀末から六世紀代にかけて営造されている五基の前方後円墳である。もとより古墳の被葬者を決定するこしは、余程に確実な証拠がないかぎり困難であり、軽々に論ずることは慎まなければならない。だがこれほどに牛窓湾に固執し、その地に自らの権威と権力を誇示しようとした首長勢力としては、もとより明確な物証あるわけではないが、私には吉備海部直以外を考えることは困難であるように思われる(後略)。

 以上見てきた通り牛窓地区に四世紀半ばころから五基の前方後円墳が築かれ、その被葬者は吉備海部直氏と推定されている。吉備海部直氏は海上交通を主とした氏族である。
 「ウシマド」という地名は最初に天神山古墳が築かれた四世紀半ばころには命名されていたであろう。海部氏という集団が共同生活を営むのであるから、意思疎通するために地名は不可欠である。
 評論家の紀田順一郎氏は、地名学よりウシは「内」あるいは「潮」、マドは「間処(まど)」で海峡などを示した可能性があるとしている。
 この説に類するものに長船町牛文がある。牛文は宛字であるが私の解釈は牛は内、文は海で椀状の内海の意と推測している。牛文の古代は内海の状態であった。
 本項の主題である牛窓という地名は牛と窓という異質の漢字の組み合わせで音が合うということで宛字されたものであろう。宛字される前に「ウシマド」という意味の明らかな地名があり、後世にその地名に牛窓という漢字が宛字されたと推測できる。
 私が考える元のウシマドは鵜島戸(うしまど)である。「鵜島がある所」の意である。鵜は航海の守護神として崇められたことから、海上交通の主役である吉備海部直氏が鵜を祀ったことに由来すると考えている。
 『万葉集』巻十一に柿本人麻呂が牛窓を詠んだ歌がある。
  牛窓の波の潮騒、島響(しまとよ)み、寄せてし君に、逢はずかもあらむ 
 この歌は八世紀前半ころ詠まれたと推定できることから、そのころ既に牛窓と宛字されていたことが分かる。和銅六年(七一三)郡(こおり)・郷(さと)の名称を好字で二字にすべしという通達を受けて牛窓に宛字されたのだろうか。
 『備前国風土記逸文』の牛転の地名伝説は牛窓という宛字から発想され、神功皇后伝説と結びついて作られたものであろう。
 以下鵜に関する色々な事例を列挙する。


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