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[瀬戸内市の地名と人々の営み]5.4.土井ヶ浜遺跡

土井ヶ浜遺跡

 フリー百科事典『ウィキペディア』から関係箇所を引用する。

 土井ヶ浜遺跡は、山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期から中期の墓地遺跡である。
 土井ヶ浜遺跡は響灘の海岸から三〇〇㍍ほど入ったところにある。海岸沿いに砂丘があり、それに直交するようにもう一つの砂丘がある。この海岸と直角にある砂丘を利用して墓地がある。東西約一二〇㍍、南北約四〇㍍ほどの広さである。
 これまでに延べ一九回の学術調査が行われ三〇〇体を超える弥生人の骨が見つかっている。砂の中に混じっている貝殻の石灰分が骨のカルシウム分の保存に適し、人骨の保存状態が良好である。出土した人骨の形質が縄文人のそれと異なることから、土井ヶ浜遺跡は稲作文化とともに中国大陸側からやってきた渡来人の墓地として注目されてきた。
 
鵜を抱く女
 一九五三年の第一次調査で壮年の女性人骨で、胸部から鵜の骨が検出されたことから鵜を抱いて埋葬されたものと考えられている。 弥生時代の人々は、鵜を神の国と人の世を仲立ちする使者と考えていたことが判っている。このことから、この人骨は、特別な霊的能力を持った女性シャーマンの埋葬例ではないかと推定されている。また、鵜が水田稲作を行う集団にとって特別なトリとみなされていたと推定されている。  鵜の羽は安産のための霊的な力を持つということが『記・紀』のなかで語られている。

 現在は遺跡のほぼ全域が「土井が浜弥生パーク」として整備され、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」が造られている。私はかつて見学したことがあり、鵜を抱く人骨を見て感動したことがある。
 鵜は水田稲作の田の神のような守護神なのだろうか。あるいは安産の霊力を持っていたのだろうか。
 前記のように宮崎県の鵜戸神宮は鵜葦草葦不合命を厄除、漁業、航海の守護神として祀っている。牛窓湾に集結した吉備海部直氏は航海の守護神である鵜を崇め、集結した港周辺を鵜島戸と命名したのであろう。
 洋上で遭難し方向を見失ったとき鵜を放つと陸地に向かって飛ぶのでその方向に進めば陸にたどり着けるという説も参考になる。
 先に鵜島戸という地名は牛窓天神山古墳が築かれた四世紀後半には命名されていたと推測した。地名は集団が共同生活を営む上で意思疎通に不可欠であると書いた。たとえ文字を知らない人でも日常の会話はできる。地名の多くは会話の中から生まれ集団全員に認知されたと考えられる。そのようにして鵜島戸の地名は生まれたのであろう。
 六世紀後半に二塚山古墳が築かれた後は前方後円墳は築かれなくなっている。その後の吉備海部直氏はどうなったのだろうか。


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