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[瀬戸内市の地名と人々の営み]6.海部氏と牛文茶臼山古墳

第六章 海部氏と牛文茶臼山古墳

 牛文茶臼山古墳は桂山の北側の突き出たような山麓にある。帆立貝古墳と呼ばれている(図を参照)。築造は五世紀末ころと推測されている。陪塚と思われる小茶臼山古墳が傍らにある。その頃牛窓では波歌山古墳が造られている。

『長船町史』掲載のものを転載

『長船町史』掲載のものを転載

 発掘された遺物の中に金銅製獅嚙文帯金具(こんどうせいしがみもんおびかなぐ)がある(図を参照)。

『長船町史』掲載のものを転載

『長船町史』掲載のものを転載

 この帯金具などから被葬者について『長船町史』は次のように述べている。

 この帯金具は日本国内での出土例が少なく、かつその出土例が畿内にはなく、いずれも周辺部であり、朝鮮半島との直接的な関係を推測できる地域で出土しているのである。もし、この牛文茶臼山古墳の帯金具も朝鮮半島との直接的な関係で入手されたものであるならば、この古墳の被葬者の姿を考える上で極めて重要な資料となる。
 また、石室内で須恵器が出土しているが、このような葬法は五世紀に入って朝鮮半島から伝えられた新しい葬法である。五世紀代の石室に須恵器を入れた例は、岡山ではまだ少ない。つまり、この牛文茶臼山古墳の被葬者は朝鮮半島系の新しい葬法を受け入れた人物といえる。
 この邑久郡域の豪族の一つとして、吉備海部直一族が推測されている。吉備海部直一族は『日本書紀』などに見られるように朝鮮半島に往来した一族である。大和政権の指示で往復したとしても朝鮮半島と直接的なパイプをもつことは可能である。このような背景のもとで、金銅製獅嚙文帯金具が入手されたことは十分推測できる。つまり、この牛文茶臼山古墳の被葬者も吉備海部直一族の中に属して海を渡っていたのか、また吉備海部直一族ではないが、極めて深いかかわりをもっていた豪族であったのであろうか。
 この金銅製獅嚙文帯金具は朝鮮半島でも百済と伽耶地域で出土しており、日本と朝鮮半島のどの地域とが関係していたのか推測することができる貴重な資料である。(太字は筆者)

 この記述で被葬者は吉備海部直の一族か、それに近い人物を想定することができる。
 前項で海部氏が邑久郡の郡司になったことを書いたが、五世紀末に造られた牛文茶臼山古墳の周辺には海部氏一族が勢力を張っていたことが推定できる。このことは海部氏がその後に郡司になることを容易にしたと云えるかも知れない。
 牛文稲荷山地区に鎮座する稲荷神社の境外末社に茶臼山海童(わたつみ)神社がある。祭神は和多津見神である。この神社の由緒は不明であるが、祭主は被葬者が海の民の首長であることを知っている配下のものかその末裔であろう。であるが故に海の神である海童神社を祀ったと思われる。
 因みに邑久町尻海に秦氏の氏神である松尾神社が祀られているが、祀られている場所は古墳の上である。被葬者は尻海で活躍した秦氏の首長と想像できることが参考になる。


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