[瀬戸内市の地名と人々の営み]7.2.製鉄遺跡
製鉄遺跡
西祖山方前から製鉄遺跡が発見された。これより先に浦間金黒谷から炉壁片が出土している。このことは福岡という地名と深い関わりがある。
昭和六〇年「浦間・西祖地区土地改良総合整備事業」の施工に伴い、埋蔵文化財の調査が行われた際に製鉄遺跡が発見された。
調査結果を平成六年(一九九四)に『西祖山方前遺跡・西祖橋本(御休幼稚園)遺跡発掘調査報告』にまとめ、岡山市教育委員会から発表された。
調査報告書によると、西祖山方前遺跡から炉址と周辺の遺構および排滓場から鉄鉱石の小片が発見された。このことから原料は鉄鉱石と判断された。
同報告書はこの炉の操業開始は遡っても古墳時代前期までで、可能性としては古代前半期(八・九世紀)に求められ、一二世紀には停止されていたとし、炉址の下手を調査した結果、谷中央部全域を埋めるに足る量の炭灰層からして、かなりな規模あるいは期間にわたる製鉄炉の操業があったと推察されると報告している。
更に、今回は製鉄炉およびその関連遺構を含めて、一基分のみの検出であった。しかし、黒色土の分布は山形池の池尻(炉址の上手にある)にも広がっており、谷奥部にさらなる別の炉の存在が想定できることから、谷全域が製鉄炉操業の舞台であったのである。
しかも、谷部を埋める夥しい炭の量は、この谷における製鉄炉の操業が盛んであったことをも示唆している。また弥ヶ奥池下方(山形池の北の谷)に田才黒・黒田の小字名が認められるが、これは炭に起因する黒色土の広がり特徴とするところから命名されたと考えられる。
そしてこの製鉄炉の発見によって弥ヶ奥池の谷にも製鉄炉が所在する可能性が想定できるようになった。浦間地区の「金黒谷」と併せて、浦間・西祖両地区は鉄生産が盛んな地であったのであるとしている。
また金黒谷からも製鉄炉壁が出土している。「金黒」の金は鉄の意で、黒はくろがねの黒で鉄の意であろう。
今回の製鉄炉の発見により鉄の大産地であることが分かり、当地の歴史に新しいページを飾ることになった。