[瀬戸内市の地名と人々の営み]7.7.長船町福岡
長船町福岡
寒村になった福岡は、寛永一九年(一六四二)岡山藩が指定した一三か所の在町(ざいまち)の一つに選ばれた。在町とは田舎にある町の意で、中央の城下町に対して地方都市的な町である。
近隣では和気・片上・虫明・牛窓・西大寺が指定されていた。
在町になってから商店街が復活した。往年の福岡の市には及ばないにしても、相当な活気を取り戻した。その賑わいが「市場小路」という地名から伝わってくる。
市場小路の周辺には上小路・東小路・西小路・下小路の地名があり、これらの地名は市場小路から見て命名された方向地名である(地図参照)。したがって市場小路は中央商店街であったことが分かる。当時とすれば大変広い道路で人や荷車の行き来で賑わった様子を彷彿(ほうふつ)とさせる。
現在の福岡の家並みは当時の面影をよく残している。市場小路から少し離れて「茶屋市場」がある。今は小さな面積だが元は大きな地名だったようだ。川湊が近いことを考えると、飲食遊興街だったのであろう。
本項は古代に岡山市東区西祖の山方前と周辺に鉄産地が生まれ、鉄を吹くことに由来する福岡という地名が誕生したという推測を大きな柱にしている。
その福岡が著名なことから福岡荘の荘名になり、後に荘内で繁栄した福岡の市の名称になったと展開した。更に南北朝のころ福岡荘の名称を継承して福岡村になり、今は長船町福岡である。