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[瀬戸内市の地名と人々の営み]8.尾張

尾張

 かつて千町平野は千町湾であった。陸地ができる経緯などについて『邑久町史』は次のように述べている。

山田庄宮下貝塚の所在する貴船山丘陵の西側裾から邑久町尾張にかけ、吉井川によって運ばれた砂が堆積した砂州(さす)状の微高地が南北に細長く形成され(後略)

 砂州とは海岸や湖岸にできた砂堤で、天の橋立や弓ヶ浜のように砂嘴(さし) のさらに発達したもので潮流・風や河川の運んだ土砂がたまってできるものである。
 縄文時代晩期中ごろから尾張周辺に陸地が広がり微高地が形成され、弥生時代前期から人々の営みが始まった。それを門田遺跡で知ることができる。
 出土した遺物について同書は、

 遺跡から出土している弥生前期土器は、瀬戸内地方弥生前期後半の標式土器として全国的に広く周知されている。土器のほかに多様な用途を示す石器や骨角器、獣骨(ニホンジカ・イノシシなど)・魚骨・鳥骨などが出土している。石器の中にはイネの穂首を摘み取るための石包丁、樹木を伐採したり加工するための石斧、漁網に結びつける錘、山野に生息する動物を射止めるため、あるいは武器ともなる石鏃多数が出土している。
石包丁は、ムラの周囲で稲作が行われていたことを証明する遺物でもある。

 これらの遺物で注目されるのがイネの穂首を摘み取る石包丁である。ムラの人口が増加することに伴い水田は次々と作られ、住居の周辺は大墾田になったと推測され、多くの富をもたらした。
 墾田はハリタとも読む。大墾田はオオハリタである。尾張はオオハリタのタが脱落しオオハリになり更にオハリになって尾張に宛字されたと考えられる。
 墾田に語源を持つと考えられる地名に播磨がある。播磨は墾間(はりま)の宛字であるという。また『和名抄』に薩摩国薩摩郡に播利郷(はりごう)があるが墾(はり)の宛字と言われている。三重県伊賀市治田の治田(はりた)は墾田(はりた)の宛字という。これらの事例から尾張も墾田と同義の可能性があるだろう。
 巌津政右衛門監修『岡山地名事典』に、

(前略)尾張の旧仮名づかいは「をはり」で開墾地をいい、小治とも書く。干拓当時の地名をとって小治村とし、ついで尾張と書くようになったと考えられる。(後略)

 としている。


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