[瀬戸内市の地名と人々の営み]9.瀬戸内市の立石
第九章 瀬戸内市の立石
立石という地名は邑久町豊原、邑久町山手、邑久町半田、邑久町北池、長船町土師、長船町東須恵、牛窓町前島の七箇所にある。ただし東須恵の地名は建石である。
山手の高砂山に鎮座する八幡宮の境内末社に立石神社がある。記録がないので確実ではないが、明治三九年勅令により神社の統廃合が進められた際に祀られたものであろう。
この神社は山手に立石という地名があることから立石に祀られていた神を遷座したものと思われる。
立石は自然石などをご神体として祀ったと想像され道路添いにある(牛窓町前島の立石は特異なので後述する)。
牛窓町師楽から亀山(牛窓神社が鎮座)方面へ行く峠に道祖神を祀ったことに由来する道祖辻の地名がある。道祖神は主に村境に祀られ悪霊や疫病の侵入を防ぐ塞の神とか、道路の安全を守る手向けの神でもある。市内の前島の立石を除く六箇所の立石は村境などにあることから道祖神を祀ったと推測できる。
道祖神
道祖神についてフリー百科事典『ウキペディア』から引用する。
道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であり、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。 全国的に広い分布をしている。
道祖神の起源は不明であるが、『平安遺文』に収録されている八世紀半ばの文書には地名・姓としての「道祖」が見られ、『続日本紀』天平勝宝八年(七五六年)条には人名としての「道祖王」が見られる。神名としての初見史料は一〇世紀半ばに編纂された『和名類聚抄』で、一一世紀に編纂された『本朝法華験記』には「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されている。また、『今昔物語集』にも同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている。一三世紀の『宇治拾遺物語』に至り「道祖神」を「だうそじん」と訓じている。
初期は陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐(ちまた)の神と習合した。さらに、岐の神と同神とされる猿田彦神と、その妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。
各地で様々な呼び名が存在する。道陸神、賽の神、障の神、幸(さい)の神、タムケノカミなど。(一部省略している)
邑久町豊原の立石
豊原の立石
立石は円張と大ヶ島を結ぶ道路の傍らにある。東に舗装された道があるので今は旧道になっている(地図参照)。
半田・山手と北池・上笠加を結ぶ道の立石
この道の傍らに立石・観音堂・東福寺の地名がある。かつては南北を結ぶ幹線であったのだろう(地図参照)。
山手の高砂山南麓にある立石
山手と水落を結ぶ道沿いにある立石だろう。
上笠加と東向を結ぶ道の立石
甲山の東の谷にある道で、立石の両側に立石口がある(地図参照)。
荒神垰と宮下を結ぶ道の立石
亀ヶ原から荒神垰を通り宮下に至る道にある(地図参照)。
4箇所の立石
東須恵の建石
かつて香登(国道)と牛窓港を結ぶ道の傍らにあった。
東須恵の建石
牛窓町前島の立石
前島の立石
立石は図のように南斜面にあり海に面している。大きな地名なので地図の上で祀られた場所を特定することはできない。前島には大きな集落が点在していたとは思えない。この立石は島の南側にあることから海側から命名されたと考えるのが妥当であろう。
立石は沖を航行する船から命名されたのではなく、立石の南の海で操業する地元の漁業者が命名したと考えるのが順当であろう。立石を祀ったのは舟の安全操業と豊漁を願って建立したと推測したい。