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岡山県内の秦氏

岡山県内の秦氏

はじめに

『日本書紀』、『古事記』や『新撰姓氏録』などによれば、応神朝に弓月君(ゆつきのきみ)が120の県(こおり)の人民を従えて移住したと記しています。

 渡来の時期は5世紀以降とされています。

 山背(やましろ)国(京都府中・南部)を拠点として秦氏とその支配下の民(秦人・秦人部・秦部)の分布は日本各地にみられその数は膨大なものです。

 秦氏は朝廷の蔵を管理し、大和王権の財政をつかさどる一方、灌漑施設、新田開発、農耕、養蚕や産鉄などの各種技術部門で活躍した殖産氏族です。

 政治的には目立った活動はありませんが、欽明天皇の側近であった秦大津父(はたのおおつち)や、聖徳太子に仕えた秦河勝の存在は、秦氏がその豊かな経済力と財政的手腕によって、大和王権内に大きな力を持っていました。

 秦氏は東漢氏(やまとのあやうじ)と並んで古代の渡来人中の雄族でした。

 岡山県は秦氏の活躍が濃厚な県です。
 しかし木簡や文献などで生業の分野が確認できるものは僅かです。

 本項は「岡山県内の秦氏関係地名」と、「邑久郡の秦氏」について述べます。

岡山県内の秦氏関係地名

 地名を大別すると、
 秦氏の氏神松尾神社を勧請して祭ったことに由来すると考えられる「松尾」と、
 秦氏の居住地と考えられる「半田・幡・秦・畑・畠」などです。

 因みに瀬戸内市邑久町尻海に祭られている松尾神社の周辺の地名は「松尾」です。松尾は松尾神社に由来する地名であることが分かります。

 ほかに秦氏の祖弓月君を祭ったことに由来する「油杉」(瀬戸内市長船町磯上)があります。油杉は弓月が訛って当て字されたものです。

岡山県内の秦氏関係地名の分布

 調査したのは合併前の46市町村です(下図の黄色の地域です)。
 地名は『岡山県地名大辞典』(角川書店)の「小字一覧」から採取しました。

画像の説明

新見市
菅生(半田)・土橋(松尾)

高梁市
川上町地頭(松尾)・川上町七地(松尾ノ上・松尾西)・川上町三沢(半田・松尾・松尾川)・川上町領家(ハン田)・川上町上大竹(半田・松尾)・川上町高山市(半田)・川上町大原(半田・半田日南)

井原市
美星町三山(松尾)・美星町大倉(半田・松尾)・美星町明治(半田)・美星町鳥頭(半田)・大江町(東松尾・西松尾)・野上町(半田・松尾)

総社市
秦(秦・ハタ)・奥坂(松尾)・影(松尾河内)・下倉(東松尾・中松尾・西松尾)・清音黒田(松尾)

倉敷市
五日市(東松尾・西松尾)・粒江(松尾・松尾山)・三田(東半田・西半田)

新庄村
戸嶋(半田・幡ノ木)

真庭市
下和(半田)・吉田(半田)・下見(半田・小半田)・下福田(半田)・西茅部(半田)・本茅部(半田)・下徳山(半田)・上徳山(半田)・上福田(半田)鉄山(半田)・樫西(松尾)・余野下(松尾)・上中津井(半田)・下中津井(松尾)・上呰部(半田)・阿口(半田)・山田(半田)

岡山市
建部町土師方(松尾)・建部町下神目(松尾・半田)・建部町和田南(半田・半田平・松尾・松尾坂・松尾田・小松尾)・建部町角石畝(半田)・建部町三明寺(松尾ヶ一)・御津中山(松尾)・御津宇垣(半田)・御津河内(半田)・御津金川(松尾)・御津高津(松尾)・御津中泉(松尾端)・御津紙工(松尾・ハタ)・瀬戸町万富(松尾)・瀬戸町観音寺(松尾)・金山寺(半田)・半田町・下阿知(半田利)・三和(松尾谷)・高野(松尾)・真星(松尾)

鏡野町
百谷(半田)・真経(松尾谷)・大町(半田)・越畑(半田)・香々美(半田)・公保田(松尾)・和田(半田)・竹田(半田)・貞永寺(半田)・真加部(半田)・掛上(半田)・吉原(半田)・上森原(半田)・馬場(半田)・入(半田)・中谷(半田)・原(半田)・下原(半田)・富東谷(半田)・楠(半田)

津山市
宮部上(半田)

美咲町
定宗(半田)・吉留(半田)・松尾

美作市
古町(松尾・半田)・下町(半田)・下庄町(半田)・今岡(半田)・川上(半田)・滝(半田)・赤田(半田・半田川原)・粟野(半田)・川戸(半田)・壬生(半田)・城田(半田)・上山(松尾)

勝央町
植月東(小松尾)・植月(小松尾)・吉野(松尾)・高取(半田)・植月北(奥半田・中半田・半田尻)

和気町
保曽(小松尾)・日笠上(松尾)・吉永町神根本(小松尾)・吉永町御所ヶ平(大松尾)・吉永町和意谷(松尾・松尾城)・吉永町加賀美(松尾ノ向・幡別越)・吉永町笹目(松尾谷)

備前市
鶴海(松尾坂)・浦伊部(幡谷)・東片上(松尾)・久々井(幡・幡谷)・八木山(小幡山)・日生町寒河(幡小山・幡ヶ市)・畠田

赤磐市
上仁保(松尾)・勢力(松尾)

瀬戸内市
長船町磯上(油杉)・長船町東須恵(畑・高畑山)・邑久町山田庄(半田)・邑久町山手(半田)・邑久町尻海(松尾)・牛窓町鹿忍(半田)・牛窓町牛窓(幡)・牛窓町長浜(畑・半田)

 地域で多少の濃淡があるもののほぼ全県的に分布していることが分かります。
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備前国邑久郡の秦氏

邑久郡域について

 平城宮木簡に、

  備前国邑久郡方上郷寒川里
  白猪部色不知塩二尻

 があります。
 方上郷は備前市東片上・西片上周辺から日生町に至る地域が比定地で、寒川は日生町寒河に比定されています。

 邑久郡は養老5年(721)4月20日に赤坂・邑久2郡から3郷を割いて藤原郡が成立しています。
 3郷の郷名は明らかではありませんが、1郷は地理的な関係から方上郷と推測されます。

 従って養老5年以前の邑久郡域は、吉井川左岸の岡山市、瀬戸内市、備前市南部の一帯でした。

 本項はその当時の邑久郡を対象にしています。

 現在は瀬戸内市の誕生により邑久郡は消滅しました。

邑久郡の秦氏関係地名の分布

画像の説明

 図でお分かりのように秦氏関係地名は海岸に比較的多く点在しています。

  • 半田利(岡山市東区下阿知)。
     利は里の当て字と思われることから、元は集落名であったのでしょう。
     干拓される以前は海岸です。
  • 半田(牛窓町鹿忍)。
     近くに製塩遺跡があります。
  • 幡(牛窓町牛窓)。
     幡は集落名です。師楽(しらく)の集落に接しています。
     師楽は師楽式製塩土器で有名です。
     新羅が転訛して師楽と当て字されたと考えられています。
  • 半田・畑(牛窓町長浜)。
     後述するように土器製塩跡地に接しています。干拓される以前は海岸周辺です。
  • 松尾(邑久町尻海)。
     松尾に松尾神社が祭られています。尻海は山裾が海岸の地形でしたが埋め立てて集落を作りました。
  • 半田(邑久町山田庄)。
     半田廃寺跡が確認されています。条里制水田が広がっています。
  • 半田(邑久町山手)。山田庄の半田に接しています。
  • 松尾坂(備前市鶴海)。
  • 畠田(備前市畠田)。
     秦が畠と当て字されたと考えられます。
  • 幡・幡谷(備前市久々井)。
     久々井は海岸に面しています
  • 幡谷(備前市浦伊部)。
  • 幡小山・幡ヶ市(備前市日生町寒河)。
     ヶ市は開地の当て字と考えられます。

邑久郡の土器製塩

 備讃瀬戸(瀬戸内海中部)は塩の著名な産地です。
  
 邑久郡域で製塩が確認できるものに遺跡と木簡があります。

 遺跡については下図を参照して下さい。
 この図は岩本正二・大久保徹也著『備讃瀬戸の土器製塩』から引用し、地名を加筆したものです。
画像の説明

 木簡(平城宮出土)は次の4点です。

 1 備前国邑久郡方上郷寒川里
   白猪部色不知塩二尻
   注ー白猪部は白猪屯倉(美作国大庭郡現在の真庭市に設置
     されていた)の部民です。

 2 須恵郷調塩三斗
   葛木部子墨
   注ー須恵郷は邑久郡須恵郷です。ほかに須恵郷はありません。

 3 備前国邑久郡八浜郷戸主□□
   麻呂戸口大辟部乎猪御調塩三斗  
   注ー「大辟部」は大避(酒)部のことと考えられます。
    『日本歴史地名大系』に大酒神社について次の記事があります。

「延喜式」神名帳の葛野(かどの)郡二〇座のうちに「大酒(オホサケノ)神社元名大辟神」とあり、秦始皇帝・弓月君・秦酒公を本殿に、呉織・漢織を別殿に祀る。「大辟」「大裂」とも記し、大酒明神ともいう。

    この記事から大辟部は秦氏の部民と考えて間違いないと思います。
   「八浜郷」は『和名抄』にありません。比定地も不明です。

 4 邑久郡八部郷□部宮
   調塩三斗
   注ー「八部郷」は『和名抄』にありません。比定地も不明です。
 
 これらは調として貢納されたものですが、土器で製塩されたものです。
 土器製塩とはどのようなものでしょうか。

 『日本大百科全書』は土器製塩について次のように述べています。

専用の土器を用いて専業的に塩を生産する原始・古代の製塩法の一種。海水から食塩を手工業的に製するためには、鹹度(かんど)(塩分濃度)を高める採鹹(さいかん)(濃縮)作業と、水分を蒸発させる煎熬(せんごう)(塩焼き)との二つの作業工程を必要とし、さらに純度の高い精製塩を得るため再煎熬が加えられることがあった。煎熬用に鉄釜(てつがま)などが普及する以前には、そのために特製された、粗製だが内面を平滑にした器壁の薄い土器(製塩土器)が大量に用いられた。関東・東北地方の太平洋岸の一部では縄文時代後・晩期のものがあるが、本格的な土器製塩は弥生(やよい)時代中期に瀬戸内海の児島(こじま)付近で開始され、古墳時代中期以後、全国各地の海岸地帯に普及し、平安時代まで存続する。もっとも盛行したのは古墳時代後期(6~7世紀)である。その中心地であった備讃瀬戸(びさんせと)地方の製塩土器は、かつては師楽式(しらくしき)土器とよばれた。海岸から離れた内陸、ことに奈良・京都など古代の都城跡とその周辺からも製塩土器がしばしば発見されるのは、焼き塩された精製塩を生産地から運ぶ運搬容器として使用されたことを示しており、奈良時代(8世紀)前後のものがとくに多い。土器製塩の研究は原始・古代における社会的分業や生産力の発展を解明するうえで重要である。

 と解説しています。
 土器製塩は弥生時代から長く続きますが、平安時代になると塩田による製塩に徐々に変わったようです。

 牛窓半島周辺の土器製塩について岩本正二・大久保徹也著『備讃瀬戸の土器製塩』から引用します。

牛窓・錦海湾岸の製塩遺跡群は最も早くから注目された一つであった。ほとんど発掘調査は行われていないが、水原岩太郎・時実黙水さんらが1930年代に実施した踏査活動で遺跡分布が克明に記録されている。丘陵を挟んで牛窓港の北東に位置する錦海湾は波静かな遠浅の海で、後には全面に大規模な塩田が設けられている。背後に山丘が迫り、山腹に刻まれた小さな谷の前面にそれぞれ小規模な海浜砂州が並び、そこが土器製塩の舞台となる。個々の製塩遺跡の規模は他と異ならないと見られるが、湾奥を中心に多数の製塩遺跡がほとんど接して並ぶ。

 と状況を説明しています。

 湾奥に並んでいる製塩遺跡の列があるのは、牛窓町長浜地区です。遺跡の列が海岸線です(図を参照して下さい)。
 後に干拓されて畑地になり、更にその沖に500ヘクタールの塩田が1958年に造られました。
 現在塩田は廃止されています。

 図のようにそれぞれの土器製塩遺跡の周辺にある秦氏関係地名が注目されます。

 備讃瀬戸の製塩と秦氏について、加藤謙吉著『秦氏とその民』から引用します。

西日本の土器製塩の中心地である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内海地域)周辺の秦系集団の存在が注目される。備讃瀬戸では弥生時代から9世紀前半まで盛んに土器製塩が行われ、備讃Ⅵ式製塩土器の段階に遺跡数と生産量(とくに遺跡一単位当たりの生産量)が増加する傾向がみられる。大量生産された塩は、畿内諸地域の塩生産の減少にともない、中央に貢納されるようになったと推測されているが、備前・備中・讃岐の三ケ国は、古代の秦氏・秦人・秦入部・秦部の分布の顕著な地域である。備讃Ⅵ式土器の出現期は、秦氏と支配下集団の編成期とほぼ一致するので、備讃瀬戸でも、秦系の集団が塩の貢納に関与したとみるべきかもしれない。

 更に、

ただ備讃Ⅵ式段階の製塩遺跡は岡山県では牛窓湾沿岸と児島束南部・児島西部、香川県では島嶼部に偏在しており、必ずしも三ヶ国の秦系集団の居住地と重複するわけではない。製塩作業のための移動という事実も想定する必要があろうが、備讃瀬戸の製塩と秦系集団の関係は、現状ではその可能性を含みつつも、不詳とせざるを得ないであろう。 

 としています。

 加藤氏は秦系の集団が塩の貢納に関与したことを示唆しながら、現状では不詳とせざるを得ないとされています。

 しかし私は野人の立場から秦氏集団の関わりは深いと思います
 その根拠は木簡と地名です。

 先に書いた木簡を再掲します。

 備前国邑久郡八浜郷戸主□□
 麻呂戸口大辟部乎猪御調塩三斗 

 この木簡の「大辟部」が秦氏と考えられることは先に書きました。
 更に各製塩遺跡の近くに秦氏関係地名があることから、秦系集団と製塩との関わりは深いと考えます。

 参考までに塩関係以外の秦氏に関する文書を掲載します。

 1 夏4月壬辰。(中略)侏儒備前国人秦大兄。賜姓香登臣。
        (『続日本紀』文武2年(698)4月3日条)
    注ー邑久郡香登郷に関係するものです。

 2 備前国邑久郡旧井郷秦勝小国白米5斗(平城宮木簡)
    注ー旧井郷は『和名抄』にはなく、比定地は不明です

 3 

   [沙弥勘籍啓]
   謹啓 申可為勘籍沙弥等事
  (中略)
  沙弥慈良備前国邑久郡積梨郷戸主秦造国足戸口秦部国人
    籍早速欲勘籍者
    右件沙弥等、蒙恩沢、其等籍欲早速勘、今事状具、
    即附慈数、謹白、
    宝亀5年3月12日(774年)(大日本古文書)

   注ーこの文書は邑久郡積梨郡に本貫をもつ沙弥慈良に関するものです。
    積梨郡の比定候補地は2箇所あります。
    1箇所は牛窓町長浜で、もう1箇所は邑久町虫明から備前市鶴海に
    またがる地区です。
    長浜地区は先に書いたように大きな製塩地帯です。
    「津なし川」があるのが根拠になっています。
    一方の虫明と鶴海は港で栄えた所です。
    この文書には「戸主秦造」の配下に「戸口秦部」とあることから、
    かなり大きな組織集団であることが伺えます。
    文意は沙弥慈良の労役などの徭役(ようえき)免除の上申書のよう
    です。

 このような資料を参考にしながら考えますと、邑久郡は秦氏の濃厚な地域で条里制水田の造成や製塩などに大きく関与したと思います。

 先に見た塩関係の木簡には白猪部や葛木部があります。
 このことは邑久郡が大きな塩の産地であることから、時の権力者が利権を確保したのではないでしょうか。

おわりに

 
 本項は県内の秦氏について見てきました。

 調査したのは全県ではありませんが、秦氏関係地名はほぼ全県的に分布していることが分かります。

 秦氏は全国的に組織された大きな集団ですが、擬制的集団といわれています。
 血縁の集団ではなく地縁的で、集団の生業に賛同するものはその傘下に集まった集団とされています。

 彼らは松尾神社を氏神として祭り、居住地をハタ(半田・幡・秦・畑など)と命名したと考えられます。

 各地の秦氏がどのような生業であっのか知る術は殆どありません。僅かに木簡などで推測できるのみです。
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