油杉
油杉
石上郷
長船町磯上は『和名抄』に記載されている石上郷(いそのかみごう)の比定地とされています。その中に油杉集落があります。
磯上地区の油杉集落と山田集落の丘陵にはそれぞれ巨大な磐座があり、油杉山には前方後円墳が、大塚集落の近くには横穴式古墳群があります。
奈良時代には日光寺が創建されるなど古代から栄えた地域です。
油杉の磐座
平野部は水田が広がっていますが、吉井川の後背湿地帯で少し大きな雨が降ると冠水し農家を悩ましてきました。
近年圃場整備が行われ、排水施設が完備したのでとその心配はなくなりました。
油杉と条里制水田
油杉は北に丘陵を背負い南西の扇状地に水田が広がる地形です。
扇状地には条里制水田が造成されました。
現在残っている条理地名は、六ノ坪・八ノ坪・九ノ坪・五ノ坪下(十五ノ坪下であるが十が省略されている)・七ノ坪(同前)です(地図参照)。
一ノ坪が条里制の区画からはみ出して六ノ坪に隣接していますが、本来の一ノ坪が低地で水田が造成できなかったための代替え地と推測されます。
油杉の東は大きな山塊で谷にため池が造られています。
近年油杉ダムが造られましたが、その下手に荒池という地名があり雑種地になっています。
更にその下手に地目が堤で地名が荒池という箇所があります。
このことからかって荒池と命名されたため池があり、永年の間に土砂が堆積しため池の機能が失われ放置されたことが分かります。
この谷には花揃池と稗田池がありますが、荒池は最も古い池でかっては条里制水田を養っていたと推測できます。
長船町磯上の南東に隣接する長船町飯井にも条里制水田があり(畑の項参照)、その水田を養っているのが荒池というため池です。
更に両者の水田は共に約35度東に傾いています。この酷似している両水田は、造成時に関係があったのではないかと想像されます。
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湯次神社
長船町磯上山田集落の山麓に祭られています。
祭神は湯次神で備前国古社128社の一とされています。
湯次神社
神仏習合時代は家高八幡宮として家高山の中腹に鎮座していましたが、嘉吉元年(1441)に現在地に移転したとしています。
明治3年旧号に復して湯次神社と社名を改めています。
『邑久郡史』に元の社地について次の記述があります。
本社より東南に油杉と云ひて人烟三十戸許りの地あり。湯次はユズキと読むにより、油杉の地は湯次神社の旧社地にあらざるか。平賀元義は、湯次神社は磯上村湯杉(油杉のこと:筆者注)といふ所に座すと云えり。
と元の社地の伝承を紹介しています。
油杉と同類の地名に、滋賀県長浜市浅井町(旧東浅井郡)に湯次(ゆすき)があります。
『和名抄』に「湯次郷」とあり中世には湯次庄になり、現在は地区名の湯次になっています。また同地には式内社湯次神社が鎮座しています。
この湯次神社について、谷川健一編『日本の神々』五に『東浅井郡志』の説を次のように紹介しています。
湯次の一帯は上代に秦氏の人々が移住し勢力を張っていた土地である。このことは湯次の近くの大井・宮部に秦氏が氏神として奉祀した大酒神社が所在することからも明らかである。湯次・宮部・大井など付近一帯に移住し村落を成していた秦氏の人々が、総氏神である弓月(ゆつき)君(融通(ゆつき)王)を祖神として祀ったのが湯次神社の始まりと思われる。「ユツキ」が「ユスキ」に変化したのは音便によると考えられる。たとえば「ツギツギ」というべきところを『源氏物語』若菜巻には「スキスキ」と書かれている。
この説から湯次は湯次神社を祭ったことから命名された地名であることが読み取れます。
長船町磯上の油杉は、弓月(ゆつき)→湯次(ゆすき)→油杉(ゆすぎ)と転訛したものと考えて間違いないと思います。
当地の湯次神社の祭神は「湯次神」ですが「弓月神」の意で、弓月君を一族の祖神として祭ったものと推測できます。
油杉は湯次神社を祭ったことに由来する地名ですから、社地は当然油杉にあったわけです。
場所は確認されていませんが、先に紹介した油杉の磐座は最も有力な候補と考えられます。
秦氏は油杉に定住して条里制水田をつくり、石上郷に繁栄をもたらしたと思います。
秦氏は秦の始皇帝の子孫と称する弓月君(融通王)が百二十県の人民を率いて帰化したという伝承をもつ氏族です。
この氏族は灌漑用のため池を作り水田を造成して農業を営み、養蚕・機織にも長け、更に製鉄の技術を持っている氏族で全国に分布しています。
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