地名をキーワードにして地域の歴史を掘り起こすページです

床ノ後

床ノ後

土師郷

 「床ノ後」は長船町土師(以下土師と云います)にあります。土師は『和名抄』に記載されているに土師郷の比定地です。

画像の説明

 土師は吉井川から運ばれた土砂で、微高地が形成された上に営まれた集落です。

 郷内には式内社片山日子神社が祭られています。
 同社は南にそびえる甲山山頂の磐座に鎮座していたと伝承されています。
 仏教寺院の影響から神は社殿に祭られるようになり、現在地に遷座されたものと考えられます。

 郷名は土師器の生産に由来すると云われ、地名の「細工原」は生産地と推測されています。

床ノ後

 床ノ後の本題は「床」ですが、先に「後(うしろ)」について考えてみたいと思います。

 後(うしろ)は本体の北側に命名される場合が多い地名です。
 長船町には「宮後」という地名が二箇所あります。両方とも氏神を祭る境内の北側にある地名です。社殿が南向きだから後は北側になるわけです。

 また「後山」という山名が集落の北側の山に命名されています。
 南側の生活の拠点である集落からみての命名です。
 他に「丸山後」とか「九軒屋後」などがあります。

 後(うしろ)地名の南には社殿、集落や床などの重要なものがあり、それに関連して命名される地名です。

 「床ノ後」は「」という地名の北側に命名されたものと思います。
 本体の「床」は消えていますが、床は住民にとって大きな存在であったため、北側に床ノ後と命名されたと考えられます。
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床について

 床の読みはトコとユカがあります。
 トコついて『広辞苑』を見ますと、

  • ①一段高く設けた平らな所。ゆか。
  • ②寝るために設ける所。ねどこ。
  • ③畳のしん
  • ④川の底。かわどこ。
  • ⑤苗を育てるところ。なえどこ。
  • ⑥「床の間」の略。
  • ⑦髪結床。床屋。
  • ⑧鉄床(かなとこ)の略。
  • ⑨牛車(ぎっしゃ)の屋形。くるまばこ。
  • ⑩犂(すき)の底部。いさり。
  • ⑪和船の櫓床(ろどこ)・舵床(かじどこ)などの総称。特に、舵床。
  • ⑫船床、また船床銭・船税のこと。

 ユカについて同辞書を見ますと、

  • ①家の中で一段高く構えて人の寝所などにする所。
  • ②浜床(はまゆか。寝殿の母屋〈もや〉に設けた貴族休寝用の 台。)に同じ。
  • ③建物の内部に地より高く根太(ねだ)を構え、板敷あるいは畳敷とした所。また、特に板敷のものの称。
  • ④劇場などで太夫が浄瑠璃を語る高座。ちょぼ床。
  • ⑤涼み台。縁台。

 と解説しています。

 ユカは建物の一部を指しますが、トコは建物の一部の他に多方面で使われています。

 岡山県内の床地名にはどのようなものがあるのか調べてみました。
 調べたのは『岡山県地名大辞典』(角川書店)の「小字一覧」と2,3の「市町村史」です。

 煩をいとわず掲載します。順不同です。

  • 「定床」 新見市大佐永富
  • 「ハデトコ」 新見市大佐小阪部
  • 「金床」 新見市大佐小南
  • 「フグリ床」・「ハカトコ」 新見市大佐田治部
  • 「池床」・「釜床沢」 新見市大佐大井野
  • 「池床」・「縄床」・「木床」 井原市美星町黒木
  • 「芝居床」 井原市美星町黒忠
  • 「池床」 井原市美星町上高末
  • 「芝床」・「柴床」 高梁市川上町上大竹村
  • 「茂床谷」・「茂床平」 高梁市川上町高山村
  • 「釜床」 美咲町塚角
  • 「小屋床」 真庭市下呰部
  • 「小屋床」・「鍛冶屋床」 真庭市上呰部
  • 「床田」 総社市三因
  • 「床ガ谷」 真庭市東茅部
  • 「寺床」 真庭市真加子
  • 「小炭床」 真庭市美甘
  • 「駄床」・「中駄床」・「小炭床向」 真庭市鉄山
  • 「金床」 岡山市北区建部町福渡
  • 「灰床」・「住床」 岡山市北区建部町鶴田
  • 「板床」 岡山市北区御津虎倉
  • 「木床」 岡山市北区御津国ヶ原
  • 「床鍋」 岡山市北区御津石上
  • 「座床」 和気町清水
  • 「土床」 岡山市東区下阿知
  • 「鴫之床」 井原市門田町
  • 「正床(しょうとこ)」 笠岡市飛島
  • 「床」・「床ノ内」・「床ノ脇」 倉敷市串田
  • 「床内」・「床内下」 倉敷市木見
  • 「有床」・「有床奥」 倉敷市下の町
  • 「床尺」・「床尺上」 倉敷市通生
  • 「西岡床」・「床内(とこうち)」 倉敷市藤戸町藤戸
  • 「床」 総社市総社
  • 「床」 総社市西阿曽
  • 「床」・「上床」 総社市三輪
  • 「池床」 総社市影
  • 「釜床」・「弁柄床」・「カジヤトコ」 高梁市成羽町中地区
  • 「金床」・「金床東平」・「柴床」 美作市大野
  • 「大床」 美作市粟野
  • 「寺床」・「寺床口」 美作市川戸
  • 「炭床」 赤磐市戸津野
  • 「床鍋」 赤磐市石上
  • 「休床」 赤磐市滝山
  • 「小屋床」・「長床尻」 新庄村鍛冶屋
  • 床ノ後」 瀬戸内市長船町土師

 以上のように命名されていますが、地元の伝承などを参考にしなければ分からないものも多数あります。

 推測できるものの中に鍛冶・タタラに関係したものがたくさんあります。

 「金床」は鍛造や板金作業を行う際、作業をする鋳鋼または鋼鉄製の台のことですが鍛冶場全体の意になったようです。
 「大床」も大鍛冶の作業場と思われます。

 「釜床」や「床鍋」はタタラ場の意、「炭床」は炭焼場、「小炭床」は鍛冶に使用する炭焼場、「柴床」・「芝床」もたたら用の炭焼釜、「駄床」は生産した鉄の集荷場のように思われます。

 また「床」のみの地名の中には、周囲に産鉄地名が密集している所にあるものがあり、それらはタタラあるいは鍛冶に関係していると考えられます。
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土師郷の刀鍛冶

 前記のように床地名はタタラ・鍛冶関係のものが最も多いことが分かります。
 このことを土師の「床ノ後」を考える上で参考にしますと、当地で刀鍛冶が行われていたことが注目されます。

画像の説明
   中子の拓本

 図は刀の中子(なかご。刀身の柄に入った部分)で、「備前国土師郷住」と「寶治二年八申八」と彫り込んでいます。
 中子を磨(すり)上げて短くしていますので「備前国土師郷住」の次には刀匠名があるはずですが消えています。
 また年号の「八」の次は月と思われますが消えています。

 この刀について次にように解説しています。

長さは二尺四寸六分、中心(なかご)を少し磨上げて、穴は三個、造込は鎬高く、姿は締まって、踏張あり、地鉄小板目小杢目交り、地景働き乱映りが大形に現れた備前風で、刃文は直刃仕立丁子に逆足入り、小沸が強く元刃の方は細く、上部を広目に無造作に焼き上げている。一見、古備前とみえる名刀。

 以上のように詳細に解説しています。

 この資料は刀剣研究家I氏から頂いたものです。解説者は不明ですが相当な専門家と思われます。

 宝治2年(1248)は鎌倉時代中期の始めころです。その頃の備前刀を取り巻く状況を見てみたいと思います。

 平安時代末ごろ武士が台頭しますが、それに伴って武器の需要が急増し日本刀は大きく発達しました。

 そのころ備前国に古備前刀派と言われている一派が台頭しました。
 政治が公家から武士へと大きく転換する緊張した時代を背景に、友成・正恒・包平など多くの名工が輩出し、黄金時代を迎えました。

 しかし銘には備前国と刀工名か刀工名のみが彫られており、備前国に続く地名がないため作刀地が特定できていません。
 諸説がありますが和気町周辺が有力視されています。

新山陽道

 古代の山陽道は東から岡山県に入ると坂長駅→和気駅→珂磨駅→高月駅を経由していました。

 中世になり備前市片上→備前市香登→岡山市一日市→岡山市藤井に変更され、人、物や情報の流れは中世の山陽道に移動しました。

画像の説明

 そして西日本で最大級の商業都市福岡が生まれました。

 備前刀の作刀地も移動し、福岡一文字派、長船派が新山陽道に寄り添うようにして誕生しました。
 両派は相競うようにして最盛期を迎え、多くの名工を輩出したことは周知のことです。 
 特に長船鍛冶は備前鍛冶の主流になり、室町時代末期まで繁栄を続けています。

 土師郷で作刀した上掲の備前刀は「一見、古備前とみえる名刀」と評されています。
 作刀したのが宝治2年(1248)ですから丁度古備前派から福岡一文字派、長船派に変わる過渡期に活躍した刀工であろうと推測できます。

 古備前派の作刀地と推測されている和気町付近から、一部の刀工が土師郷へ移住してきたことが考えられます。

 商業都市福岡を世に知らしめたのは一遍上人聖絵「福岡の市」であることは云うまでもありません。

 この絵は弘安元年(1278)冬の場面設定で描かれています。
 土師郷で作刀された宝治2年(1248)から30年後です。この絵には刀が店頭に並んでいますから、刀は商品として店で販売されていたことが分かります。

 当然長船産の刀が主に販売されていたのに相違ありませんが、福岡の市に隣接している土師郷産の刀も並べられていたかも知れません。
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刀鍛冶工房

 刀鍛冶工房の設備は風を送るふいご、鉄を加熱する火床(ほど)、鉄を鍛える金床と焼きを入れる水槽です。

画像の説明
   刀鍛冶の工房

 写真で説明しますと、左手に持っているのはふいごの柄、作刀中の刀を差し入れている場所が火床、右手の槌を置いているのが金床、その右が焼きを入れる水槽です。

 この写真は大正時代末ごろのものですが、設備は鎌倉時代のものと変わらないと思います。

 この火床と金床が鍛刀の眼目であることから、「床」が鍛冶工房全体を指すようになり、さらに地名になったと思われます。

 「床ノ後」の床は「鍛冶工房の後」の意である可能性が極めて高いと思います。

 床には「釜床」・「床鍋」などのたたら場と思われる地名があることから、「床ノ後」もたたら場とも考えられますが、次項で述べる「閂」・「貫木」の絡みからその可能性は低いと思います。

トコとユカについて

 地元の古老に聞くと床ノ後をユカノウシロと呼んでいます。
 しかし先にユカにつてい『広辞苑』の解説を記載しましたが、ユカは建物内部の一段高くした板張りや畳張りとか寝所などを意味します。

 建物の内部構造の一部が地名になることは先ずありません。本来トコと読むべきものをユカと誤読したものと思います。

 かって私は床(ゆか)は「斎甕(ゆか)」の当て字だろうと書いたことがあります。
 斎甕は神聖な甕の意で祭器ですので、土師器の産地である当地に相応しい地名と思ったわけです。

 しかし考えてみると斎甕は日常語ではありません。
 地名は共同体(集落)の全員が認識して初めて地名になりますから、会話の中から生まれます。

 斎甕のような非日常語が、文字を知らなかったり書けない人々が話すことは先ずないと思います。
 従って地名になる可能性は低く斎甕説は当を得ていないと思っています。
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