[瀬戸内市の地名と人々の営み]1.4.邑久町尻海と秦氏
邑久町尻海と秦氏
曾て尻海は錦海湾に面していた。尻海とは尻のような椀状の海の意と思われることから錦海湾を指しているのだろう。
尻海の地形は幾多の変遷を経ている。現状は錦海湾が埋め立てられ昭和三五年流下式塩田が作られたが廃止され、跡地にメガソーラーの設置が進められている。
では元の地形はどのような状態だったのだろうか。図一のように平地はなく山と入江のみで人が住めない土地であった。
図1 尻海の元の地形
海岸は図一のようにリアス式海岸である。
図2 現在の地形
図二に記入した地名から元の地形の状態が分かる。
内浜・内濱・東浜・西浜・中浜はそれぞれの浜辺の意である。
田重浦・浦口・福浦の浦は湾曲した海や海岸の意である。
中島はこの場所は湾の中にある島である。
西浜土手は堤防が築かれていた場所である。西浜土手と東浜を結ぶ線に堤防を築き干拓が行われたと推測できる。それはほぼ旧県道に沿っている。干拓によって住居が建てられ水田が造成された。
ではこのリアス式海岸を誰が干拓したのだろうか。
尻海と製塩
先に平城宮の木簡の、
須恵郷調塩三斗
葛木部子墨
を記載したが、これは調として貢納した塩の荷札である。
現在須恵郷は長船町東須恵・西須恵に比定されているが、奈良時代の須恵郷には海岸があったことがこの荷札で分かる。
当時の尻海は美和神社の信仰圏内であったと推測されることから、木簡の須恵郷は尻海周辺を指していると考えられる。
先に土器による製塩について詳しく書いた。当時の尻海は干拓されていたのか不明であるが、人が住み製塩に従事していたことは推測できる。しかも特産品として貢納されていることから可成りの規模で生産されていたのだろう。浜辺で塩を焼き附近の山に住んでいたのだろうか。奈良時代は尻海の歴史の黎明期であろう。
松尾神社
松尾神社
松尾神社は集落の東端の小高い山の山頂に祀られている。社殿は古墳の上に建立されている。神社に因んで周辺は松尾・松尾下の地名が取り巻いている(図二参照)。
松尾神社の祭について『邑久町史』「地区誌編」に次の記事がある
松尾神社は尻海の松尾古墳の上に祀られています。江戸時代中ごろからだんじり祭が催されてきました。当日の朝、だんじりに乗る十数人の子どもたちは、世話役の大人たちと一緒に松尾明神、神田明神に参拝し、しゃぎりを奉納して御幣をいただいて下山します。いただいた御幣はだんじりの正面の屋根に飾ります。東町、市場町、西町から出た三台のだんじりは、尻海地区内を三台三様のしゃぎりや伊勢音頭で賑やかに囃して廻ります。(後略)
松尾神社は現在もこのように手厚く祀られている。松尾神社は山城(京都市)に祀られている秦氏の氏神松尾大社を勧請して祀ったものである。
松尾古墳の被葬者は尻海に定住した秦氏一族の首長であることは推測できる。
秦氏と干拓
秦氏は水田開発、農耕、ため池造成、養蚕、製鉄、製塩など幅広い殖産氏族であることは度々書いた。
尻海に堰堤を造り干拓して土地造成したのは秦氏集団であったと考えられる。干拓地には住宅地や水田が造成され人々が住める地域になった。
だからこそ恩恵をうけた住民は秦氏の首長の古墳の上に松尾神社を祀り現在も手厚く祀っているのだろう。