[瀬戸内市の地名と人々の営み]5.5.邑久郡の郡領になった海部氏
邑久郡の郡領になった海部氏
七〇一年(大宝元年)に編纂された大宝令により、評が廃止されて郡が置かれ、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備された。特に権限が強かった大領・少領のみを差して「郡領」とも言う。郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官であった。
大領は現在の瀬戸内市長、少領は副市長に匹敵するのだろう。
邑久郡の郡領は海部集団の首長によって世襲されたと考えられる。『平安遺文』に収められた十一世紀初頭の「備前国国司解案」の文中に少領海宿禰共忠、大領海宿禰恒貞と記録されている。更に恒貞に関して「譜第正胤、累代門地」と述べている。この海宿禰氏は牛窓に集結していた吉備海部氏の後裔であろう。